コレクションショップ YAMAMOTO 京極店@中京区中之町
京都でアーミー関係の服やら小物買うならここです。
京都の新京極で昔から営業しています。
学生の頃はよく言ってました。
僕はアーミーなものには興味はないのですが、学生でも買いやすい値段なので重宝してました。
ここで買った腕時計5000円は気に入っていました。
文字盤が青いイカリマークの入った珍しいネービーな雰囲気なもの。
コートも買いました。
8000円ぐらいで裏が起毛になっているもの。
起毛部分は取り外し可能で秋、春もいけるもの。
通販もやっています。
どんなものか覗いてみてください。
道の駅むらやま@村山市楯岡
Google map ローカルガイドの得点が120000を超えた件について
二年ほど前からグーグルマップのローカルガイドをやっている。
画像やら口コミをひたすら上げて今はレベル10になりました。
レベル11になるには20万点が必要になる。
たぶん無理だろうなー。
健康のため歩きまくっていた時期があった。
休日の場合は以下のようにしてた。
一定地域(大字単位とか)を決める。
その範囲でグーグルマップに登録している箇所をすべて(行ってみたい)で登録する。
現地で行ってひたすら登録した(行ってみたい)をめぐる。
トミーズのアンコを練り込んだ絶品食パン「アン食」@神戸市東灘区魚崎南町
あん食(アンコをねりこんだ食パン)のうまさたるや!似たようなパンは他にもあるけど、やはりここの、神戸の、トミーズのアン食が最高であります。ちょっとトースターで焼いてバターぬってたべたら昇天しました。
絶対オススメ!食べてみてください、うまいから。
J.フロント リテイリング株式会社の株を買ってみようかな、と思う件
日本株投資を細々とやっている者です。
正直、コロナショックで含み損です。
J.フロント リテイリング株式会社の株を買おうかと思案中です。
理由は主に株主優待です。以下のとおり。
- 大丸百貨店、松坂屋百貨店の買い物が10%オフになる。大丸京都店、梅田店、心斎橋店、神戸店、東京店あたりは使うことがあるので、単純に10%オフはうれしい。
- 配当金がある。コロナショックの消費不況のなかでも配当金が入る。配当性向が40%とのこと。今のところ最低投資金額八万円で三千円程度もらえる。配当性向が3%超えている。買ってガチホすれば10年で3万円。つまり株価3割下がってもトータルではプラスになる可能性が高い。
- 現在の株価が低くPBR が1を割り込んでいる。
- コロナはいつか収束するはず。消費も戻ってくるはず。
- いままで他の株からもらった配当金がある。配当金再投資は株式投資の王道。
以上の理由からJ.フロント リテイリング株式会社の株を買いたい!って思ったわけです。
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初心者にもオススメ!やはり株式投資の王道は配当金だな、と思う件について
結論:配当金をもらうのが史実に基づいた株式投資の王道
長年、株式投資をやっている方とお話しをする機会がありました。
この人ははバリュー株とか財閥系低位株のナンピン買い投資とか、いろいろとやってみたとのこと。
自分も少額とはいえ投資しているので、お話をふんふん言いながら聞いていました。
結局しみじみと言うのは
「やはり配当金もらうのが株投資の王道だよ、キミ」
とのこと。
株式制度が500年前にオランダで発生したときも「出資を分散、リスクを分散、利益も分散」というのが本旨だったとのこと。
株式会社という革新的手法で見知らぬ人々から巨額のお金を長期的に調達し、スペイン・ポルトガルが独占するインド航路の貿易を成功させた、というのが史実らしい。
つまり株式制度っていうのは、少しのリスク(資本)を提供して少しの利益(配当金)の分配に預かるための制度が本来の趣旨だと、博学なこの方はおっしゃるわけです。
だから邪道なキャピタルゲイン(売却益)は考えずに、インカムゲイン(配当金)をもらうことこそが伝統的で本質的な投資手法だ、とおっしゃるわけです。
この方は日本株で現在20万円ほど含み損を出しているけど、いままで配当金を合計すると、含み益よりもかなり多い配当金をもらっているとのこと。(具体的な金額はおしゃってくれませんでした。ケチ。)
そうかぁ、配当金は比較的手堅く入るものだし、自分も配当金狙いにしようかな、と思った。
株が上がるか下がるかはわからないけど、配当金が入るかどうかは事前に調べたらわかるもんなー、って。
底堅い企業に少額ずつ投資(分散投資)して少額づつ配当金もらうえばいいわけかー、と思います。世の中には「テンバーガー」という言葉があって株価が10倍に上がることらしいですが、こんなの狙ってできるわけない。っていうかこれできるなら、証券会社の自社取引の担当者なんて億万長者だらけですよ。頭のいい人がさらに選抜されて大手の証券会社に入ってもなかなか難しいわけです。私には無理無理。あきらめて配当金、チビチビもらったほうがいいに決まっている。
銀行に預貯金利子よりも、配当金のほうが金額は大きいし不労所得って素敵。
老後の備えにもなる(はず)
うん、そうしよう。
みなさんも配当金もらってワクワクする生活はどうですか?教養のある方なら、これこそが株式投資の本旨だと言うことがわかりますよね、多分。手数料無料なら尚更オッケーです。
わたしはその話を聞いたこともあって米国高配当ETFをSBI証券さんで買っています。
いかのところ含み益です。
12月には配当金が1万円ほど入る予定、これが年4回あります。
株式投資の最初の1冊としては以下の本がよいと思います。
アマゾンの「投資・金融・会社経営」でベストセラー第1位なので間違いないです。
※本ブログの掲載事項は、個人的見解に基づくものであり、特定銘柄への投資を推奨するものではありません。また本ブログの掲載事項は必ずしも正確であるとは限りません。投資は自己責任でお願い致します。
日本の道~The Long and Widing Road~より
日本の道~The Long and Widing Road~ 国道303号
国道303号
起点 岐阜県岐阜市
終点 福井県遠敷郡上中町
延長 134.1km
重要な経過地
岐阜県本巣郡北方町 同郡糸貫町 同県揖斐郡揖斐川町 同郡藤橋村
滋賀県伊香郡木之本町 同郡西浅井町 同県高島郡マキノ町 同郡今津町
指定区間 なし
国道303号の八草峠付近10kmはトンネル工事に伴って通行止めとなっている。自己責任の範囲ならば岐阜県より峠までの通行は可能であるものの,落石,倒木がひどく補修などは一切施されていない。峠には国道開通碑があり苦難の末に開通した地元の人々の喜びが感じられる。一方で建設中の八草トンネルは貫通しているものの前後のアプローチ道路の整備を残すのみとなっており,まだしばらくは工期が続きそうだ。
古くから美濃より近江へ抜ける交通路であった。毎月8月末の木之本地蔵縁日のため村を上げての整備が行われていたようである。明治23年に改修し揖斐-東横山間が北山街道として呼ばれるようになる。27年には西横山から広瀬を経由し川上までの坂内街道が整備される。横山までは県道岐阜揖斐線および揖斐高月停車場線として大正9年に認定される。昭和22年,川上から八草峠を経て滋賀県杉野村までのルートは坂内村,杉野村の双方から林道として整備が進められたが途中で放棄。坂内村の人々は炭焼きなどを主生計としていたが,仕事を片手間に林道開削工事を自発的に行い,昭和26年に開通させた。昭和45年5月に国道303号岐阜木之本線として承認された。それに伴い揖斐川から横山までは横山ダム建設に伴って新北山トンネル,久瀬トンネル,名倉トンネル,樫原トンネル,椿井のトンネルを含む区間の整備が昭和45年より開始され昭和61年まで続けられた。
参考文献
藤橋村史 藤橋村,1982
岐阜県道路史 岐阜県土木部,1992
【滋賀県のホームページ(現在は該当ページは削除されている)より抜粋】
現在行っている国道303号バイパス工事のうち八草トンネルが平成13年に開通するまでは、国道303号がこの峠を通っていました。昭和25年にできた八草林道が県道となり、昭和43年に国道に昇格したものです。幾重もの山並みにへだてられた北近江と西美濃でしたが、今日考えられる以上に交流は活発だったようです。婚姻による人の交流をはじめ、炭、薬草、楮(こうぞ:美濃紙の原料)等の物資、情報、文化、あらゆる面で強い結びつきが認められます。山を生業(なりわい)とする人々にとって山並みはへだたりではなかったようです
『日本の道』より抜粋http://japan.road.jp/
古くから美濃より近江へ抜ける交通路であった.毎年8月末の木之本地蔵縁日のため村を上げての整備が行われていたようである.明治23年に改修し揖斐-東横山間が北山街道として呼ばれるようになる.27年には西横山から広瀬を経由し川上までの坂内街道が整備される.横山までは県道岐阜揖斐線および揖斐高月停車場線として大正9年に認定される.昭和22年,川上から八草峠を経て滋賀県杉野村までのルートは坂内村,杉野村の双方から林道として整備が進められたが途中で放棄.坂内村の人々は炭焼きなどを主生計としていたが,仕事を片手間に林道開削工事を自発的に行い,昭和26年に開通させた.昭和45年5月に国道303号岐阜木之本線として承認された.それに伴い揖斐川から横山までは横山ダム建設に伴って新北山トンネル,久瀬トンネル,名倉トンネル,樫原トンネル,椿井のトンネルを含む区間の整備が昭和45年より開始され昭和61年まで続けられた.
近江との峠越えがなくなり八草村は絶えた。
岐阜新聞Web 2008年 8月28日(木) 分水嶺
今夏、大正時代に滅んだ坂内村(現揖斐川町)の八草集落跡を訪ねた。岐阜、滋賀県境にある八草峠の手前から軽四貨物車で林道を分け入ると、集落跡は夏草が生い茂っていた。
子孫たちが昭和59年に建立した記念碑が目に飛び込んできた。碑文は「江濃の山波累々」で始まり、「往古 この地に熊谷、佐波、長谷川、牧野、山本の五家居を構え、藤井神社を鎮めて八草村を興した」と刻む。
徳川中期の明和年代、住家は30戸を超え、住民は140人に増えた。生業は焼き畑と山仕事。明治の後半から村の暮らしは窮まり、大正8年、300余年の幕を閉じた。
民俗学者宮本常一は「ふるさとの生活」(講談社学術文庫)で八草村を取り上げた。昭和16年夏、大垣市から揖斐川町まで電車に乗り、そこからバスで坂内村へ。八草峠を越えて滋賀・木之本まで行く途中に立ち寄った。
宮本は「こんな山奥にまで、なぜ人は住んでみようとしたのか」と問い「人は失敗にこりないで、国のはしばしにまで村や町をつくりあげていった。失敗の歴史こそ、とうとい手本」と書く。
宮本の旅の追体験を地元の方にお願いして実現した。八草村が絶えた一番の要因は、近江との峠越えがなくなったことだという。今は八草トンネル(約3キロ)を抜ければ北陸自動車道へ。夏草の下からのぞく石積み。滅びた集落の跡にも歴史は潜んでいた。
▼明治政府以降、インフラ整備は都道府県単位で行われた。八草村は美濃国にありながら経済的には木之本、長浜と結びつきが強い地域だった。この地を江戸時代に治めた大垣藩は、薪炭を長浜の市で売ることを禁じ、大垣で売るようにお触れを出したとのこと。しかし人々は近江に通い続けた。理由は簡単、「近江のほうが高く薪炭を買ってくれるから」。明治以降、大垣から坂内方面に伸びる「坂内街道」が、岐阜県の事業として整備されるいっぽうで「峠越え」の道は打ち捨てれることになる。滋賀県としても県境の先にある小さな村のために道路を整備することはしなかった。鉱山のある金居原までの道路整備にとどめた。美濃にありながら北近江・湖北とつながりのあった国境の村は八草村だけでなく、幾つかあった。しかし多くの峠が現在でも車では通過不能となっており奥西濃ともいうべき地域と湖北の繋がりは途絶えたままである。岐阜県道40号と滋賀県道40号本巣山東線はかっこうの例である。号線の名前まで同じなのに途中で途切れているのである。この路線に沿った滋賀最初の村は甲津原であるが、昔は甲津原と峠を越えた美濃の村は通婚等行き来があったそうである。それがなくなった結果、甲津原もカウンターパートナーだった美濃の村も「どんつき」「行き止まり」の村となり、地域といての活力を半減させてしまうのである。かつては、いきいきとした動脈が通っていたのが、毛細血管の先っぽしか通らない地域になってしった。待っている結果は「壊死」である。つまりは村落の消滅が現実味を帯びてくるのである。
滋賀夕刊 なぜ村を出ていくのか
★滋賀夕刊 2007年10月22日 時評 なぜ村を出てゆくのか★
伊香郡の最果て、美濃と近江の県境にあった八草村から、彦根市の鳥居本の男鬼(おおり)へかけての典型的な廃村の歴史を追ったが、その取材の過程で知ったことは、昔の人の強じんな体力と生活意欲であった。
もう一つ驚いたのは、測量技術も空からの航空写真もない時代に、何千、何万㌶の山から山への地籍や県境、郡境をどうして決めたのか。また、その名前の由来など、考えれば考えるほど謎めいて、まるで深い山の迷路に行きついたような思いである。
村人にとって、村を離れることは、村を捨てることにひとしい。祖先以来、地域が一体となって助けあい、励ましあってきた血族集団がその伝統と歴史に別れを告げて、散り散りに下山することの悲哀は断腸の思いだったと思われる。
しかし、よく調べると、不思議な思いにゆき当たる。それは、電気のない、荷車も通れない不便で不文明な時代は山の中で発展的、意欲的な生活をして、さながら小王国のような集落形成を維持してきながら、明治の代になって、道が開き、電灯がつき、町との行き来が便利になってから人々は村を離れるようになった。
これは米原市の榑ケ畑、その他の戸数や人口の推移資料を見るまでもなく、現在のように通信、交通、情報の発達した時代でさえも流行のように村を離れる、いわゆる限界集落が出現し始めた。
いままでは、背板(せた)に炭や割木を負って、10㌔から20㌔の険しい山路を下りて、里へ物々交換をしなければならなかったのに、荷車で大量の荷を運べるようになり、さらには自動車で短時間に多量の物資を運び、行き来も連絡もスピード化したことを思えば山に極楽の風が吹いたようなものである。
村の共存共栄がますます盛んになって当然と思われるのに、事実は逆の現象となった。
明治に入って、道がよくなり、村の近くまで交通機関の恩恵が受けられるようになってから人々は村を離れ始めたのである。
この都会指向の、田舎離れは、文明の進化と産業構造の変化によるところが大きい。その一つは余呉町の奧川並や米原市の榑ケ畑村に見られるように燃料革命による木炭、薪などの林産品の不振があげられる。
今一つは、交通の至便による都会との交流により、就職活動が容易になったことである。
これは明治期以降の産業革命のもたらす影響といっていい。つまり大工場が出現し、その影響による周辺企業の定着、活性化が労働力の需要をまねき、必然的に村から町への流動を促した。
エネルギー革命、産業革命、交通・通信の近代化は、同時に医療、教育の充実発展につながり、今日の大都市への人口集中現象に拍車をかけた。
このような人為的文化のもたらす人口移動に輪をかけたのが雪害という自然の脅威からの逃げだった。
さらに言えることは、集落内の若ものの職業分化が多岐、複雑になり、村人の生活空間の一体化にひびが入ったことである。それは青年会、婦人会などの低調さや解散にみられ、伝統的村意識の崩れを意味する。
住みなれた村を離れるのは容易なことではないが、生活に行き詰まり、借金が積もり、他に打開の道がなければ、都会や新天地に再興の夢をかき立てるのはあり得る話で、江戸期のような往来の制限された抑圧からの解放感も手伝った。
このほか、新しい村離れの原因の一つは、都市的文化生活への憧れ、子供の教育、古い村のしきたりからの逃げ、なども上げられるし、老人比率の上昇からくる若ものへの村の経営管理への比重の重みも離村の間接的影響となっている。【押谷盛利】
関西電力 金居原発電所計画の中止について
関西電力株式会社 プレスリリース 2002年11月19日
金居原発電所(仮称)建設計画の中止について
当社はこれまで、金居原発電所(仮称)建設に向け、準備工事を進めておりましたが、この度、この計画を中止することとし、本日岐阜県、滋賀県をはじめ関係各所に中止の申し入れを行いました。
金居原発電所(仮称)建設計画は、平成10年代中頃の電力需要の伸びに対応するため、岐阜県坂内村と滋賀県木之本町に、出力228万kWの揚水発電所を建設するというもので、平成8年3月、電源開発調整審議会の承認を経て、平成10年10月から準備工事を実施してまいりました。
しかしながら、この間の電力需要動向は大きく様変わりし、昨今の長引く景気低迷や省エネルギーの進展、負荷率の改善といった需要構造の大きな変化により、当社においてもピーク需要が大幅に伸び悩んでおります。さらに、電力自由化範囲の拡大に向けた議論の進展など、電気事業を取り巻く経営環境は今後も一段と厳しさを増すことが予想され、当社も今後一層の経営効率化を図っていく必要があります。
このような状況を踏まえ、誠に残念ながら、本計画を中止せざるを得ないとの結論に至ったものです。
これまで本計画の推進にあたり、多大なご理解やご協力をいただきました地元の方々をはじめ、関係者の皆様には深く感謝申し上げますとともに、かかる結論に至りましたことにつきまして、何卒ご理解を賜りますようお願い申しあげます。
以上
なぜ関西電力(株)は国道を施工したのか、そして止めたのか?
昨年まで岐阜県揖斐郡に住んでいました。その当時は週末毎に近江に赴いていました。揖斐郡から近江へは国道303号をつかって木之本町に抜けるルートが最短です。現在は八草トンネルで滋賀・岐阜県境を越えるますが一昔前までは「八草峠」を越えるルートでした。国道に指定されていながらも通行が困難な箇所を「酷道」というらしいです。この「酷道」を通行することを趣味にしている「酷道マニア」というも人たちもいてはるらしいです。
滋賀県と岐阜県を結ぶ国道303号線の八草・金居原バイパスが全面完成し、11月14日に開通する。従来1時間ほどかかっていた峠越えが12分に短縮される。
木之本町の山奥と岐阜県揖斐川町坂内を結ぶ幹線道路の総事業費は130億円とのこと。この費用の大半を出しているのは、関西電力である。国道なのになんで関西電力が費用負担をしているのか。そのわけを説明しよう。岐阜県との県境にある木之本町の金居原地区には、関西電力の大規模な揚水発電所が建設されることになっていた。
揚水ダムや水力発電所等の建設費は4600億円とも言われていた。その工事用道路としてバイパスが必要であったわけだ。しかし、揚水発電所建設の計画は、関電自身が頓挫させた。エネルギー事情云々と理由をつけているが、原発の夜間余剰電力を消費する大規模な揚水発電所建設から、「エコキュート」へ方針転換したからだ。だけど、地元に約束した国道バイパスは完成させなければならない。という次第で、将来もほとんど交通量が望めない区間に、超デラックスな国道が完成してしまった、というわけ。
割をくったのは、地元・木之本町である。関電から入る巨額の固定資産税をあてにしていたからだ。それが全部すっとんだ。これが回り回って、湖北の市町合併のネックとなっている。財政力の極めて弱い木之本町は、多額の町営住宅家賃滞納問題で、合併の仲間へ入れてもらえるかの「黄信号」が点滅している。
一時は「ダム課」まで設けて、全てを関電さまに神頼みしていたのに、裏切られてしまった木之本町は、同和対策の負の遺産「住宅家賃と住宅新築資金等の貸付金償還」にあえいでいる。
北近江と西美濃を結ぶ八草峠
かつて滋賀県湖北地域振興局木之本建設管理部の古道紀行にあった一文
八草峠は、滋賀・岐阜県境にある金糞岳と土蔵岳の中間に位置します。現在行っている国道303号バイパス工事のうち八草トンネルが平成13年に開通するまでは、国道303号がこの峠を通っていました。昭和25年にできた八草林道が県道となり、昭和43年に国道に昇格したものです。
この道路ができるまでは、400mほど北にある日の裏峠(越え)、さらに北の登谷とイ坂を結ぶ旧八草峠が、北近江と西美濃の交流を支えていました。旧八草峠は、久加(日坂)越えといわれ、山を埋める樹木の中にきこり道が細々とついているだけでしたが、近江の金居原と美濃の川上、徳山を結ぶ主要な峠でした。この峠には、彦根藩2代藩主井伊直孝が領地検分の折りに植樹したといわれる松があり、直孝松と呼ばれています。
幾重もの山並みにへだてられた北近江と西美濃でしたが、今日考えられる以上に交流は活発だったようです。婚姻による人の交流をはじめ、炭、薬草、楮(こうぞ:美濃紙の原料)等の物資、情報、文化、あらゆる面で強い結びつきが認められます。山を生業とする人々にとって山並みはへだたりではなかったようです。
国道303号八草峠付近小史@長浜市木之本町金居原付近
岐阜県揖斐郡揖斐川町から滋賀県へは国道303号をつかって木之本町に抜けるルートが最短です。現在は八草トンネルで滋賀・岐阜県境を越えるますが一昔前までは「八草峠」を越えるルートでした。国道に指定されていながらも通行が困難な箇所を「酷道」というらしいです。国道だった303号の岐阜県揖斐郡揖斐川町坂内〜滋賀県長浜市木之本町金居原区間も現在は立派な国道となりました。かつて50分以上かかっていた県境区間が現在では15分程度で抜けられます。
ちなみに「険道」(けんどう)、「死道」(しどう)というのもあるそうな。国道303号八草峠付近は「酷道」マニアには有名なスポットだったそうです。現在岐阜県側でもっとも県境に近い字は「揖斐川町坂内川上」です。同様に滋賀県側でもっとも県境に近い字は「木之本町金居原」です。川上と坂内の間の国道303号の改築工事が行われていましたが、工事が終了して平成20年11月14日(金)午後3時に全線開通しました。今は揖斐川町坂内まではスイスイいけます。揖斐川町坂内・藤橋の人たちが高速道路に乗ろうとすれば、1時間半ぐらいかけて名神関ヶ原インターまでいかなければならなかったのが、1時間程度で北陸道木之本インターにいけるようになりました。僕にとっては酷道303号は岐阜在住時代の「近江通い」に使った道です。僕が近江に移住した年にバイパスが全線開通とは皮肉なものです。冬期間の通行止もなくなりました。坂内村・金居原村間については酷道303号をよく使っていただけに、興味もあり、いろいろと調べていました。今回ちょっとまとめてみようかな、、、とずっと思っていました。
◆江戸時代初期(詳細年代不明@八草村◆
熊谷、佐波、長谷川、牧野、山本の五家居を構える。藤井神社を鎮めて八草村を興した。
◆江戸時代初期@八草峠◆
彦根藩2代目 直孝公、八草峠付近に松を植える。その松は直孝松と呼ばれるようになる。当時の八草峠(日阪・久加越え)はキコリ道程度のものだった。
◆江戸時代中期 明和時代@八草村◆
住家は30戸を超え住民は140人に増えた。生業は焼き畑と山仕事。
◆江戸時代~明治時代@八草峠付近◆
婚姻、炭、薬草、楮(こう)等の物資、情報、文化、あらゆる面で強い結びつきが認めらる。毎月8日末の木之本地蔵縁日のため村を上げての整備が行われていた。縁日の市で西美濃北部の特産品を売るため。大垣藩は炭などは大垣で売るようにと、お触れを出す。近江国境に近い山村では峠を越えて近江で物資を売る傾向が強かった。理由は「近江のほうが値が高いから」。
◆明治23年@岐阜県側◆
揖斐-東横山間(坂内の手前)が北山街道として呼ばれるようになる。この区間の道路改修が進んだため。
◆明治27年@岐阜県側◆
西横山から広瀬を経由し川上までの坂内街道が整備される。揖斐から北山街道・坂内街道が整備されたことになる。揖斐と坂内の結びつきが強くなる。この時期、八草村の生活が困窮するようになる。
◆大正8年@八草村◆
八草村廃村。岐阜県側で最も滋賀県境に近い集落は、坂内村川上集落となる。
◆昭和22年@八草峠付近◆
峠の両側で林道としての整備が進めれる。川上~八草峠~杉野村金居原までが坂内村・杉野村の双方から林道として整備が進められたが途中で放棄。坂内村の人々は、炭焼きなどの仕事の片手間に自発的に林道開削工事を継続する。坂内村は岐阜のもっとも奥にある村であり、「第二の八草村を出すな」という意識があったものと思われる。伝統的には近江とのつながり峠越による経済的恩恵を受けてきた地域。北近江に抜ける道があれば「岐阜県の先っぽ」ではなく「滋賀県への回廊」の位置を占めることができる。
◆昭和25年@滋賀県側八草峠付近
八草林道開通、県道へ昇格。
◆昭和26年@岐阜県側八草峠付近◆
八草林道開通。
◆昭和39年@藤橋村横山◆
横山ダム完成。
◆昭和43年@滋賀県側八草峠付近◆
「八草林道」が県道が国道に昇格。
◆昭和45年@岐阜県側八草峠付近◆
国道303号岐阜木之本線に昇格。
◆昭和45年@揖斐川町から横山ダム◆
新北山トンネル、久瀬トンネル、名倉トンネル、樫原トンネル、椿井トンネルをを含む揖斐川町から横山ダム間の国道303号の整備が開始。
◆昭和61年@揖斐川町から横山ダム◆
国道303号揖斐川町から横山ダム間の道路整備完了。県単位のインフラ整備、付近に横山ダム(中部地方整備局管理)、徳山ダムの計画があったこともあり岐阜から坂内方面への道路、インフラが整備される。必然的に坂内は揖斐・大垣方面へ目が向かうことになる。いっぽうで滋賀県方面への峠越のルートは打ち捨てられたまま。行政によって「県境」が固まっていく事例ですなぁ。。
◆平成6年@国道303号八草・金居原バイパス◆
急峻な山岳地帯を縫っていた旧国道の改築工事として八草・金居原バイパス工事スタート。
対象延長:9.7キロ
滋賀県側:5.1キロ
岐阜県側:4.6キロ
◆平成13年@国道303号川上バイパス◆
岐阜県側で国道303号八草・金居原バイパスに接続する国道303号川上バイパス共用開始。
◆平成13年@国道303号八草・金居原バイパス◆
県境にあたる八草トンネル約3.4キロ開通。付近で「金居原発電所(仮称)」を計画している関西電力が施工主体。
未改築延長:6.3キロ
滋賀県側:3.6キロ
岐阜県側:2.7キロ
◆平成14年@金居原バイパス◆
金居原集落部分のバイパス工事完了。金居原バイパス部分約1.7キロ供用開始。付近で「金居原発電所(仮称)を計画している関西電力が施工主体。
未改築延長:4.6キロ
滋賀県側:1.9キロ
岐阜県側:2.7キロ
◆平成14年@国道303号八草・金居原バイパス◆
関西電力が「金居原発電所(仮称)」建設の中止を発表。工事の進捗の遅れが懸念されるようになる。
◆平成17年頃◆
国道303号をしばしば利用。全線開通を待ち望む。このこの時点で坂内川上から木之本町中心部までは1時間20分程度。いやはや「酷道」でしたよ。昼ぐらいに岐阜県から滋賀県に向かって行くと不思議なことに対向車(滋賀から岐阜に向かう車)はほとんど「岐阜ナンバー」でした。滋賀ナンバーはみかけない。あとで坂内村の方に直接伺ったら「坂内の人たちはけっこう滋賀にいくんですよ。木之本の平和堂もいきますよ。あと湖北総合病院とか。高月までいけばスーパー、書店、百均、マクドナルドまでありますもんね。長浜までも行くこともあるかな。家電量販店もあるじゃないですか。」と普通に湖北の情報が出てくる。(ノ゚⊿゚)ノびっくり!!
未改築延長:4.6キロ
滋賀県側:1.9キロ
岐阜県側:2.7キロ
◆平成18年@国道303号八草バイパス◆
岐阜県側の八草トンネルアプローチ部分約2.1キロ完成、供用開始。完成したときは感動した。「土木ってすごいな!!」と思う。木之本町までの到達時間が10分程短縮される。あとは金居原から八草トンネルへのアプローチができればスイスイいけるハズ。
未改築延長:2.5キロ
滋賀県側:1.9キロ
岐阜県側:0.6キロ
◆平成19年度@金居原バイパス◆
八草トンネル滋賀県側出口付近の八草大橋192mが完成した模様。供用開始はまだ。附属物とか大橋の先の部分がまだ未完成の様子。岐阜県側で残っていた川上集落付近も工事が進んでいる様子。早く完成しろ~。
未改築延長:2.5キロ
滋賀県側:1.9キロ
岐阜県側:0.6キロ
◆平成20年11月14日@国道303号八草・金居原バイパス◆
金居原バイパス1.9キロ、八草バイパス0.6キロが同時開通。これによって国道303号八草・金居原バイパスは全線開通!!
総額約百三十億円
滋賀県側約六十六億円
岐阜県側約六十四億円
約15年の歳月をかけた大工事!!
坂内川上から木之本町中心部への所用時間がかなり短縮。45分程度。坂内川上から金居原までの峠越は国道303号八草・金居原バイパス事業前は約1時間かかったらしい。それが15分に短縮。さらに初雪観測~4月まで行われていた冬季通行止もなくなることになりました。金居原も坂内川上も「どんつき」の村ではなくりました。新聞報道に記載があったのですが、国道303号八草・金居原バイパス全線開通をうけて滋賀県知事・岐阜県知事の知事懇談会が12年ぶりに行われたそうな。隣県とはいえ疎遠なものです。バイパス開通を機に西美濃と北近江の交流が増えることを期待したいものです。
昭和初期には金居原よりちょっと先の「土倉」という場所で日窒が銅山などを操業していたようです。(現在は廃坑)その影響か金居原を流れる杉野川の石は場所によっては赤茶けています。燃料が炭から石炭、やがて石油へ銅山も廃坑となったいまでは金居原は「湖北の秘境」となってしまいました。もともとこの周辺は峠を越えた西美濃の奥地(揖斐郡)とつながりが深かった地域でもあります。杉野川にピカピカする石を最初に発見したもの岐阜県のヒトだったそうな。。平成に入って俄かに関西電力の水力発電所建設の計画がもちあがります。関電が誇る若狭湾の原子力発電所の夜間の余剰電力により水を揚水して発電することが計画されたのです。しかし社会の変化により金居原発電所(仮称)の建設は中止されてしまします。その遺産として国道303号金居原バイパスが建設されました。途中までは「工事用道路」として関西電力が建設した高規格の道路です。交通量に比べて非常に規格のいい道路で「ムダな道路」との批判をうけてしまいそうです。
酒田短期大学顛末記
ネットのコピペ。
自分用の覚書。
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[沿革]
1961年 学校法人林昌学園設立。
1966年 東北短期大学(とうほくたんきだいがく)開学。
1968年 酒田経済短期大学に改称。
1973年 酒田短期大学に改称。
1977年 入学定員を100名に縮小。
1982年 学校法人天真学園と合併して学校法人天真林昌学園を設立。
1986年 学校法人瑞穂学園設立。
1987年 経営を学校法人天真林昌学園から学校法人瑞穂学園に継承。共学から女子のみの募集となる。
1990年 再び共学となる。
2001年 留学生問題が発覚。
2002年10月 資金難で全教職員解雇。休校になる。
2003年1月 酒田労働基準監督署により倒産認定。
2003年3月 最後の卒業生6人が卒業。
2004年7月14日 文部科学省より学校法人瑞穂学園に対し私立学校法違反により解散命令
[中国人留学生は「宝」 大学・短大が受け入れ着々]
雑誌『AERA』2001年04月02日
年を追うごとに、受験生は減っていく。大学経営者は悩んでいる。定員を大きく割り込めば国からの補助金も減るからだ。さあどうする。これはもう中国からの留学生に頼るしかない、と私立酒田短大(山形県酒田市)が、学生募集の対象を海外へと大きくカジを切ったのは、去年春のことだった。開学から約四十年の歴史を持つこの学校で、元理事長らによる不明朗な借り入れが問題化し、いまの経営陣に運営が引き継がれたのが一九九九年七月。悪評が響いたためか、次の年の春に入学した日本人学生は定員百人に対し、推薦合格の九人だけだった。
現地からチャーター便
現経営陣はもともと、東京都内で別に日本語専門学校も経営し、かなりの中国人が学んでいる。中国とのつながりが以前からあり、生き残りのため本格的に学生を募るとき、それを中国に求めるのは、自然なことといえた。少子化が進み、日本人学生のパイは減る一方。そしてみんな有名校に行きたがる。ならば中国から優秀な人材を、と考えたわけです。私学が経営を成り立たせていくためには、自主努力が必要。と短大側はいう。縁のあった吉林(チーリン)、遼寧(リャオニン)、黒竜江(ヘイロンチアン)という東北三省の役所から協力を得て、役所内の「留学センター」を通じ、留学希望者を募った。 現地の試験では、日本語の能力試験と、「短大を出た後、四年制大学に編入するのか大学院に進むのか、本人が明確な将来設計を持っているかどうか」を知るための面接を重視するという。入学時期は、日本人学生の場合は春だけだが、中国人留学生には春と秋の二回となるように学則を変えた。去年春は二十二人だった中国人留学生数は、秋には男女百二十四人。この春は、希望者約四百人に面接し、入国管理局などの審査を経て、最終的に二百四十四人に在留許可が出た。うち約五十人は東京、大阪などの日本語学校から。日本人の入学予定者は六人という。「留学予定者のうち、少なくとも二百人は来てくれるはず」と短大側は期待する。四月下旬の入国の際は、ハルビンから庄内空港までチャーター便を飛ばす予定だ。
中国人職員5人を採用
留学予定の学生は、平均して二十代前半から三十代前半。大多数が中国の大学を卒業後、働いていたという。入学前に払う初年度分の学費百二十万円は、中国ではかなりの高額だが、短大側は、中国には、一人の子供に六人の親がいる、という。本人の収入に加え両親と祖父母四人が助け合い学費を集めるケースが多い、といい、さらにこう話す。ウチは経済の単科短大で、留学生は、日本でビジネスを勉強して将来に役立てたい人ばかり。医大出身も十五人いる。水準が高い。留学生のため、この春、学生課に中国人職員を五人採用。市民にとけ込みやすくするために、短大が直々に、市内に二軒のラーメン店を開く。
(中略)
また一方で、定員の約一・五倍を上回る学生を採れば、これも補助金を失う可能性がある。経営サイドからすれば、この「上限」と「下限」の間で、どう入学者数を調整できるかがカギになる。
10万人計画はいまも
冒頭に登場した酒田短大は、この春、入学予定者が全員来れば、定員の約二・五倍が入学する計算になる。だがここの場合、前経営陣の時代から七年ほど、補助金をもらっておらず、補助金を待っていては、とても経営が成り立たないという事情がある。(後略)
[酒田短期大学留学生問題]
学校の定員の2倍を超える多数の中国人留学生を不法に受け入れ、学生ビザでの日本への労働目的の入国の足掛かりにさせた。留学生の多くは酒田には居住しておあらず、首都圏に居住し不法就労をしていた。そのことが引き金になり資金繰りが悪化、2002年に事実上廃校になった。運営する学校法人瑞穂学園に文部科学省が2004年に解散命令を出した。国所轄の学校法人への解散命令は初めてとなった。みずほ学園短期大学と改称して新学科を設立するという再建策が出されたが実現しなかった。この大学では、この数年前から入学者が激減し、一学年の定員が100人にもかかわらず、全校あわせて81人の学生しかいなかったとということ。そこで考え出したのが中国人留学生の入学。春と秋の2回、中国で選考を行い、その前の秋に140人、その春に226人の中国人を入学させたとのこと。その結果、当時は2学年で352人が在籍していたそうですが、うち339人が中国からの留学生だったようです。そして、10月から中国人265人が入学する予定でしたが、ここで仙台入国管理局から待ったがかかり、在留資格が認めらなくなります。つまり入学が不可能になったということ。その理由として先代入国管理局は「既に1学年の定員(100人)を超過しており、これから入学しても十分な就学活動ができるとは認められない」と定員の大幅超過を理由としています。しかし定員だけではなく、もっと問題となっていたことがありました。それは事実上ここが日本の学生ビザでの日本への労働目的の入国の足掛かりになってしまったことです。留学した生徒の多くは授業に出席せず、労働による賃金獲得を行っていたようです。地元で大学の用意した中華料理店で働く場合もあったようですが、多くは首都圏に赴き、首都圏の4年生大学編入のため、という理由付けがなされ、それをサポートするというか理由付けのためか、都内に授業を放映するサテライトスタジオを儲けていたとのこと。
[酒田短大で最後の6人卒業 存続のめどなく事実上の幕]
中国人留学生問題で揺れた酒田短期大学(山形県酒田市)で14日、最後まで残っていた留学生6人が卒業、学生はいなくなった。今春の入学生もなく、短大存続のめどは立っていない。 酒田短大では一昨年12月、200人近い留学生の首都圏移住が発覚。今年1月に労働基準監督署が学校法人の倒産を認定して閉校状態に陥っており、この日の卒業式で事実上の「幕」が降ろされた。酒田市のホテルで非公開で行われた卒業式には、山形短大に編入した学生や、東京に引っ越したり、中国に帰国した留学生計5人のほか、昨年解雇された教職員28人が出席。 臨時学長代行を務めた佐々木裕造元教授は祝辞の中で「教育理念のない経営陣が起こした問題で、短大の歴史が幕を閉じようとしているのは、慚愧(ざんき)に堪えない」と一連の問題に触れた。