〜さざなみのおおやしま〜

何でも「少なく、小さく、軽く」が身上のミニマリスト。GAFAMの犬。楽天経済圏の住人。<サラリーマンのテーゼ>について考える。

滋賀夕刊 なぜ村を出ていくのか


★滋賀夕刊 2007年10月22日 時評 なぜ村を出てゆくのか★

伊香郡の最果て、美濃と近江の県境にあった八草村から、彦根市鳥居本の男鬼(おおり)へかけての典型的な廃村の歴史を追ったが、その取材の過程で知ったことは、昔の人の強じんな体力と生活意欲であった。

もう一つ驚いたのは、測量技術も空からの航空写真もない時代に、何千、何万㌶の山から山への地籍や県境、郡境をどうして決めたのか。また、その名前の由来など、考えれば考えるほど謎めいて、まるで深い山の迷路に行きついたような思いである。

村人にとって、村を離れることは、村を捨てることにひとしい。祖先以来、地域が一体となって助けあい、励ましあってきた血族集団がその伝統と歴史に別れを告げて、散り散りに下山することの悲哀は断腸の思いだったと思われる。
 しかし、よく調べると、不思議な思いにゆき当たる。それは、電気のない、荷車も通れない不便で不文明な時代は山の中で発展的、意欲的な生活をして、さながら小王国のような集落形成を維持してきながら、明治の代になって、道が開き、電灯がつき、町との行き来が便利になってから人々は村を離れるようになった。

これは米原市の榑ケ畑、その他の戸数や人口の推移資料を見るまでもなく、現在のように通信、交通、情報の発達した時代でさえも流行のように村を離れる、いわゆる限界集落が出現し始めた。

いままでは、背板(せた)に炭や割木を負って、10㌔から20㌔の険しい山路を下りて、里へ物々交換をしなければならなかったのに、荷車で大量の荷を運べるようになり、さらには自動車で短時間に多量の物資を運び、行き来も連絡もスピード化したことを思えば山に極楽の風が吹いたようなものである。
 村の共存共栄がますます盛んになって当然と思われるのに、事実は逆の現象となった。

明治に入って、道がよくなり、村の近くまで交通機関の恩恵が受けられるようになってから人々は村を離れ始めたのである。

この都会指向の、田舎離れは、文明の進化と産業構造の変化によるところが大きい。その一つは余呉町の奧川並や米原市の榑ケ畑村に見られるように燃料革命による木炭、薪などの林産品の不振があげられる。

今一つは、交通の至便による都会との交流により、就職活動が容易になったことである。

これは明治期以降の産業革命のもたらす影響といっていい。つまり大工場が出現し、その影響による周辺企業の定着、活性化が労働力の需要をまねき、必然的に村から町への流動を促した。

エネルギー革命、産業革命、交通・通信の近代化は、同時に医療、教育の充実発展につながり、今日の大都市への人口集中現象に拍車をかけた。

このような人為的文化のもたらす人口移動に輪をかけたのが雪害という自然の脅威からの逃げだった。

さらに言えることは、集落内の若ものの職業分化が多岐、複雑になり、村人の生活空間の一体化にひびが入ったことである。それは青年会、婦人会などの低調さや解散にみられ、伝統的村意識の崩れを意味する。

住みなれた村を離れるのは容易なことではないが、生活に行き詰まり、借金が積もり、他に打開の道がなければ、都会や新天地に再興の夢をかき立てるのはあり得る話で、江戸期のような往来の制限された抑圧からの解放感も手伝った。

このほか、新しい村離れの原因の一つは、都市的文化生活への憧れ、子供の教育、古い村のしきたりからの逃げ、なども上げられるし、老人比率の上昇からくる若ものへの村の経営管理への比重の重みも離村の間接的影響となっている。【押谷盛利】