〜さざなみのおおやしま〜

何でも「少なく、小さく、軽く」が身上のミニマリスト。GAFAMの犬。楽天経済圏の住人。<サラリーマンのテーゼ>について考える。

近江との峠越えがなくなり八草村は絶えた。


岐阜新聞Web 2008年 8月28日(木) 分水嶺

今夏、大正時代に滅んだ坂内村(現揖斐川町)の八草集落跡を訪ねた。岐阜、滋賀県境にある八草峠の手前から軽四貨物車で林道を分け入ると、集落跡は夏草が生い茂っていた。

子孫たちが昭和59年に建立した記念碑が目に飛び込んできた。碑文は「江濃の山波累々」で始まり、「往古 この地に熊谷、佐波、長谷川、牧野、山本の五家居を構え、藤井神社を鎮めて八草村を興した」と刻む。

徳川中期の明和年代、住家は30戸を超え、住民は140人に増えた。生業は焼き畑と山仕事。明治の後半から村の暮らしは窮まり、大正8年、300余年の幕を閉じた。

民俗学者宮本常一は「ふるさとの生活」(講談社学術文庫)で八草村を取り上げた。昭和16年夏、大垣市から揖斐川町まで電車に乗り、そこからバスで坂内村へ。八草峠を越えて滋賀・木之本まで行く途中に立ち寄った。

宮本は「こんな山奥にまで、なぜ人は住んでみようとしたのか」と問い「人は失敗にこりないで、国のはしばしにまで村や町をつくりあげていった。失敗の歴史こそ、とうとい手本」と書く。

宮本の旅の追体験を地元の方にお願いして実現した。八草村が絶えた一番の要因は、近江との峠越えがなくなったことだという。今は八草トンネル(約3キロ)を抜ければ北陸自動車道へ。夏草の下からのぞく石積み。滅びた集落の跡にも歴史は潜んでいた。 


▼明治政府以降、インフラ整備は都道府県単位で行われた。八草村は美濃国にありながら経済的には木之本、長浜と結びつきが強い地域だった。この地を江戸時代に治めた大垣藩は、薪炭を長浜の市で売ることを禁じ、大垣で売るようにお触れを出したとのこと。しかし人々は近江に通い続けた。理由は簡単、「近江のほうが高く薪炭を買ってくれるから」。明治以降、大垣から坂内方面に伸びる「坂内街道」が、岐阜県の事業として整備されるいっぽうで「峠越え」の道は打ち捨てれることになる。滋賀県としても県境の先にある小さな村のために道路を整備することはしなかった。鉱山のある金居原までの道路整備にとどめた。美濃にありながら北近江・湖北とつながりのあった国境の村は八草村だけでなく、幾つかあった。しかし多くの峠が現在でも車では通過不能となっており奥西濃ともいうべき地域と湖北の繋がりは途絶えたままである。岐阜県道40号と滋賀県道40号本巣山東線はかっこうの例である。号線の名前まで同じなのに途中で途切れているのである。この路線に沿った滋賀最初の村は甲津原であるが、昔は甲津原と峠を越えた美濃の村は通婚等行き来があったそうである。それがなくなった結果、甲津原もカウンターパートナーだった美濃の村も「どんつき」「行き止まり」の村となり、地域といての活力を半減させてしまうのである。かつては、いきいきとした動脈が通っていたのが、毛細血管の先っぽしか通らない地域になってしった。待っている結果は「壊死」である。つまりは村落の消滅が現実味を帯びてくるのである。