うつ病になった。
突然のことだった。
同僚にうつ病になった方は幾人かいた。
残された自分達は仕事が増えた。
コーヒーでも飲んでカフェインとればいいんのだ。
と思っていた。
「悟りとは何か」「阿片二斤」とはある中国の高僧の禅問答。
現代科学で解釈すれば、化学物質(阿片に含まれるアルカロイド)が脳内物質に変換され、人間の気分(悟り)を決定するということだ。
遺伝子の発見と並んで脳内物質の発見は、20世紀生物科学の大いなる発見だという。
人間の気分という可視化できないと言われたものすら、化学式で記載できる。
だからカフェインとれば、うつ病にならないという間違った理解をしていた。
うつを経験すると、まさか自分がなるとはと思った。
同時にカフェインでどうにかできるものではない、とも思った。
一時期は無駄に自死を考えた。
次に考えたのはサラリーマンとしてもう働きたくない、そして働けなくなるということだった。
復調して思うのは「サラリーマンとして働く自分の危機」だったということ。
サラリーマンとして働くために、資質や努力が必要だ。
資質の一つは学歴として計られる。
現在の日本においてサラリーマン(ホワイトカラー)のほとんどは大卒だ。
大学に入るために努力もした。
就職するために苦労もした。
サラリーマンとして働けなくなることは、今までの自分の努力や苦労が水の泡になってしまう、と思った。
同時に雇い先の有り難さも実感した。
かなりうつ病の休職者には手厚い会社だった。
サラリーマンには助けがいる。
高度経済成長期に植木等が唄ったように「サラリーマンは気楽な稼業」などではない。
職場の人間関係や、業務のプレッシャー、同期に比べて出世が遅れてはいやしないか、不本意な異動や転勤の苦労、源泉徴収で引かれてしまう税金(捕捉率ほぼ10割)。
自分はおそらく、これからもサラリーマンとして生きていくのだろう。
ならばサラリーマンとして生きる術が必要だ。
社内のコミュニケーションやタスクの進め方、これらは大学教育で教えてはくれない。
また、税金や投資などお金についてのことも教えてくれない。
自営業者の方とお話をしていると、税金や補助金の話に詳しいことに舌を巻く。
税金や補助金に精通していることが、ダイレクトに本業の利潤、儲けにもつながる。
自営業者なら、当然の知識なのだ。
同時に商人なら、いかに仕入れ値を低くするかにしのぎを削り、いかに売値を高めに設定するかに心血を注ぐ。
バランスシートが彼らにそれを強要するのだ。
そういった意味ではほぼ定額の給料を毎月同じ日に受け取って、定期昇給にボーナスまでついてくる、税金のことは総務課担当者に年末調整の書類を出して終わり、仕入れ値も売値も担当者が決めればいいこと、というサラリーマンは「気楽な稼業」と言えなくもない。
サラリーマンにも資本はある。
サラリーマンの健全な資本は、体としては健康な、心として健全な、頭脳としては整理され明晰であることだ。
わたしは一度、健全な心を失った。
そこでサラリーマンとしての資本失い、事業継続の危機を感じた。
健全な心は戻りつつある。
復調の途上で思ったのは、サラリーマンは決して気楽な稼業ではないとうことだった。
同時にサラリーマンとしての生きる術、サバイバル術についての指導や教育を受けたことがない、という事実に気がついた。
日本は学歴社会ではない、という話がある。
たしかに韓国などと比べても、学歴と収入の相関関係は低いのかもしれない。
同時に、日本人は大学入学までは勉強するが、それ以降は勉強しない。だから学歴社会ではないのだ、とも言われているらしい。
たしかにたとえば英語にしても、人生で最も英語スキルが高かったのは大学入試直前というヒトが圧倒的に多いだろう。
サラリーマンとして学べること、学ぶべきことはたくさんある。
しかし自分はこれを怠っていた。
自分の成功体験として大学入試がある。
このときに各科目の勉強は当然した。
しかし科目の勉強をする前に「どのように勉強すべきか」「英語の力をアップさせるのではなく、特定大学の入試英語を突破する方法はどうなのか」といった目的意識を鮮鋭化させた学習をかなりやった。
具体的には勉強法に関する書籍を20冊近く読んだ。
最初にとった本は「偏差値50から早慶を突破する法ー秀才を逆転する”傾斜配分勉強術”」だった。
しかし自分がサラリーマンとなった後、サラリーマンとして生きる術に関する本を何冊よんだだろうか?
非常に心もとない。
数は少ないがビジネス書や教養書は読んだかもしれないが、充分とはいえないだろう。
サラリーマンといういわば「プロ」ならば月に何冊も読むべきだ。
そういう意味では、わたしは不勉強な学歴主義ではないサラリーマンだった。
同時にサラリーマンとして得た金銭をいかに使うのか、収入や支出を含めた生活全体をマネジメントするか、先に上げた自営業者のような税金や補助金(役所から出る給付金)に関する知識が全くないことに愕然とした。
日本において投資や節税といったお金の話をすることはタブー視されている。
滅私奉公、質素倹約を旨とした江戸時代の武士たちの階級的後継者とされる、現代のサラリーマンにおいて、そういった雰囲気は濃厚にある。
事実、わたし自身も職場においてそういった話をしないし、同僚達も同様だ。
たまに投資や節税に熱心な方がいるが、そういったヒトは「本業を疎かにして金儲けに熱心な不届き者」として見られているような気がする。
控えめにいっても社内的に、能力評価や業績評価に影響することはない。
アンオフィシャルな評価は下がってしまうだろう。
サラリーマンも節税や自己を含めた投資に熱心になるべきだと思いが至るようになった。
自営業者がそうであるようにだ。
たとえば税額控除の制度を利用することは、サラリーマンにとって仕入れ値、原価を下げることになり、利潤の最大化に資することになる。
自己を含めた投資については、言うに及ばずだ。
日本のサラリーマンの平均所得は、主要先進国で唯一下り続けている。
労働資本性が下がっているのだ。
つまり労働生産性を上げること(自己研鑽に励こと)は当然として、節税などでコストカットすること、得た利潤を運用すること、いずれも必要となる。
<サラリーマンのテーゼ>
経済的自由の大きさ・融通性(リベラル)=収入の大きさ=(給与支給総額+その外の所得+資産運用益)ー社会的負担(税・社会保険)ー支出最適化
でありトマ・ピケティが提示した残酷なテーゼ『「r>g」資産運用により得られる富は、労働により得られる富よりも成長がい、つまり働くよりも投資したほうがいい』はおそらく真理でありゴシック体で記載されるべきことなのだ。
経済的自由の大きさ・融通性(リベラル)をたかめることは、サラリーマンとしての事業継続を用意にする。
そのための要素として、給与支給総額を上げることはもちろん、その外の所得、資産運用益、社会負担、支出の最適化を行う必要がある。
経済的自由の大きさ・融通性(リベラル)を獲得するための技術(アーツ)が必要なのだ。
サラリーマンには「教養」が必要だ。
「教養」という言葉がある。
通常は人文科学的や 芸術についての知識群を指し、 これらに精通している人を「教養がある」または「教養人」と評価する。
会計や税法に関する知識は教養とはいわず実学あるいは社会科学とみなされ、 これらに精通していることをもって教養人であるとはみなさない。
つまり俳句や茶道、古典文学に詳しい人は「教養人」であるが、簿記や所得控除や所得税の還付方法に詳しい人は「教養人」とはみなされないのである。
「教養」に対応する英語はリベラルアーツである。
もともとリベラルアーツは ギリシャローマ時代に概念的な源流を持ち、中世以降は「人が持つ必要がある技芸(実践的な知識学問)の基本とみなされた。
具体的には文法学、修辞学(レトリック)、論理学、天文学、音楽を指した。
つまりリベラルアーツは、極めて実践的な学問であったと言える。
前述のような事情から、わたしを含めたサラリーマン達は、殊に直接お金に結びつくような知識・行動を意図的に回避しかつひどく疎かにしてきた。
サラリーマンとして働くことの危機を感じたときに、具体的な仕事のやり方や自分のスキル等をネガティブに見直すことは、結果何ら成果を産まなかったと思う。つまり給与支給総額を上げるための技術を見直してみても、さしたる成果はなかったということだった。
いっぽうでその外の所得、資産運用益、社会負担、支出の最適化などの知識については、驚くほど知識がないことにも気がついた。
翻っていえば、いままで知らない、意識したことがないことだから、今からこれらを身につける余白は多大に残っている。
つまり「伸び代」があるということに気がついた。
間違いなくプラスになり、経済的自由・融通性(リベラル)を増し、結果としてサラリーマンとしての事業継続を容易にするはずだ。
一例をあげると、昔、自分が入社したての頃、特定の業務しかできなく、転勤も頑なに拒否し、全く出世していない年配の社員がいた。
特定分野の知識と経験において問題ないが総合職としては視野が狭く、出世はできなかった。
慣れた仕事を慣れた場所で長期間継続しているので、仕事の苦労も同輩に比べて少なかった。
会社が彼に厚く報いなかったのも、仕方がないと思う。
給与支給総額も、同期に比べて低かったと思う。
しかし彼は15歳以上年下の上司の下でも、全く平気だった。
彼はサラリーマンとして働く一方で、家業の農業を継いでおり大きな事業収入があった。
生涯独身、居所は親から継いだ住宅、質素な生活を好んだということもあり、彼の資産は1億とも2億とも言われていた。
ちなみに彼から直接「銀行で投資信託すすめられるけど、あんなの損するからおれはやらない」と言ったのを聞いたことがある。
当時は金融ビッグバンの直後であり、銀行が投資信託の販売を始めた時期だった。
当時、銀行の窓口でこのような薦めをうけるということは、その銀行に多額の預金があったことの証左であろう。
サラリーマン自体としては成功しているとは言い難かったが、事業収入があったおかげで、全く平気で、経済的な自由は同僚等を遥に凌駕していた。
同期の出世頭といえども、かれほどの資産は持っていなかったと思う。
つまり<サラリーマンのテーゼ>の「その外の所得」の大きさが、彼をしてサラリーマンとしての事業継続を容易にせしめ、同じ会社の同期が持ち得ないような収入の大きさ=経済的自由の大きさ・融通性(リベラル)を持たさしめることになったのだ。
彼は定年退職まで勤め上げたらしいが、いつでも辞めることも転職することも可能であったと思う。
65歳までの再雇用・定年延長には応じなかったらしい。
彼はすでに十分なほど経済的自由の大きさ・融通性(リベラル)を持っていたのだ。
もういちど<サラリーマンのテーゼ>を見直してほしい。
「その外の所得」と「資産運用益」を大きくし「社会的負担(税・社会保険)」を小さくすることは、経済的自由の大きさの増加につながる。
「給与総額」を増やすのと同様の効果があるのだ。
収入の大きさは、経済的自由の大きさ・融通性(リベラル)と符号する。
当サイトでは、この収入の大きさ、経済的自由、融通性(リベラル)に資する技術(アーツ)を「教養」または「リベラル・アーツ」と定義したい。
要素としては前述のように、給与支給総額をいかに上げるか、その外の所得を上げる方法、資産運用益の増やし方、社会的負担(税・社会保険)の軽減方法、支出の最適化の提供である。
このサイトでは経済的自由に近づく教養・リベラルアーツを提供することを主な目的、ミッションとしたい。
わたしは「洗練された利己主義」あるいは「狡猾な利他主義」を身上としている。
「自己の利益を追求することで他人をも利する」ことが「洗練された利己主義」であり、「他人に益を与えることで自分に利をもたらす」ことが「狡猾な利他主義」である。
このブログでリベラルアーツを提供するためには、自分自信がその術を身につけるしかない。ブログに書こうと思えば自分で調べて経験するしかない。
さらに記事を読んでくれた方の、収入の増加や経済的自由に近づけること気付きがあれば、望外の幸せである。
その過程で、わたしにより有益な情報が入ってくるであろうし、広告収入やアフィリエイト収入があれば、なお良い。
これこそまさに「洗練された利己主義」あるいは「狡猾な利他主義」である。
近江商人の家訓をまとめた言葉として有名な「売り手よし、買い手よし、世間よし」となるのではないか。
自分が学生のときに知った言葉であるが、そのときはまさに学問的な意味でしか理解していなかったが、今新たにリベラルアーツつまりは、収入の大きさ=経済的自由の大きさ・融通性を増す技術として理解し直してしみじみと噛み締めている言葉がある。
最後にその言葉をもう一度噛み締めたいと思う。
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運営者 やしま
初出掲載:2020年10月1日