〜さざなみのおおやしま〜

何でも「少なく、小さく、軽く」が身上のミニマリスト。GAFAMの犬。楽天経済圏の住人。<サラリーマンのテーゼ>について考える。

増田荘@京都市左京区岩倉


後にみつけた「増田荘スタジオ」という動画。おそらく違う時期に住んだ方がアップしたものかと。


大学卒業後、奨学金も無くなり、プーとなった僕。
探しに探して、家賃8千円、共益費3千円のボロアパートを発見。
伏見区の大手筋の近くから岩倉へ引越した。
猥雑な商店街近くから洛北の里岩倉へ
 
ちなみに水道代込み。
ガスは調理の場合は10円入れて2分ぐらい使えるガス台。
ぼろいけど使えましたよ。
よく近くの農協のスーパーから高菜を買ってきて「高菜チャーハン」作った。
いまでも高菜を食べると当時のことが鮮やかによみがえってくるほど。
風呂は共同ながらも24時間入り放題でシャワー付き、湯船あり。
つまり水道・ガス代・共益費込みで11000円でした。
 
こんなに安いかというと、このアパート、大家さん「趣味」だからです。あるいは連結決算だから。
 
大家さんは実は未亡人の資産家。
山科やら伏見やらに大きなマンションを持っていた。
固定資産税で何百万とか言う話しをしていました。
すっげ。
 
母屋と同じ敷地にボロアパートの住人の面倒を「趣味」でみてくれてた。
 
なるべく長くいてほしい、ということで家賃安め。
お金に困っていないので、家賃安め。
入居者はお金に困ってカワイソウだから家賃を上げられない
ということでずっとお家賃据え置き。
しかも希望すれば駐車場代込み。
共益費が、三年間のうちに千円だけアップしました。
でもかなり安め。
 
見た目は農婆然としてるのでが、大金持ち。。。
 
 
 
管理人さんは「メゾン一刻」の音無響子さんに
似ている70歳を越えたおばぁちゃんでした。
目が二つあって顔の中央部に鼻があって
右手と左足、左手と右足を交互に前後させて歩行するところがそっくり。
 
お子さんはいるのですが、独りっ子で未婚。
それで敷地内にいるアパートの住人の面倒を見るのが嬉しかったよう。
 
もともと岩倉には同志社大学のグラウンドがあった関係で
入居人には同志社大学の体育会の学生が多かったようです。
 
ラグビーの大八木敦さん(伏見工業高校同志社大学神戸製鋼)の本にも「岩倉の王将で平尾(伏工→同大→神鋼)と・・」なんていう下りもありました。
 
現在、同志社大学のグラウンドは京田辺市に移転。
僕が住んだアパートも京都精華大の学生さんが一人いるぐらいで
ほとんど社会人。
 
[一ノ瀬さん]
入居人にオジさんが一人いました。
一ノ瀬さんももマンションのオーナーらしいです。
自らマンションをもっているのに家賃8千円のアパートに住んだり、
農婆のような格好でいたり金持ちってわからんな。
 
一ノ瀬さんと店子の方(マンションの1偕は店舗として賃貸)が揉めたらしく
店子さんが怒鳴りに来た。
おっかなかったわー。
 
一ノ瀬さんは猫を飼っていた。
名前は「みーちゃん」という三毛猫。
 
ボロアパートなので
「みーちゃん、みーちゃん。みぃちゃんはかわいいなぁー」
「そっかぁ。みーちゃんはこーしてもらうのが気持ちええんやなー。ええか。ええのんか?みーちゃん」
 
とか言っているのが聞こえるのですよ。
 
「すわっ!若いオンナか?」
 
と思い色めきたちつつ
近くにたまたまあったガラスのコップを弓手に回挟み
コップを壁に自分の耳をコップの底におしつけつつ・・・。
 
「にゃー、にゃー」
 
猫かいっ!!
どっちにしろ羨ましかった。
ってアパートで猫飼うんじゃないっ!!
まぁ、一ノ瀬さんは自由な方でしたわー。
 
大家さんは
自分も猫飼ってるし一ノ瀬さんにだけ猫飼うなとはよういわん。
って寛大な態度。
いや施設管理上のゆーてもいいものかと
 
 
[二階堂さん]
 
同じ歳ぐらいの方もいました。
二階堂さんは精華大出て
そのままバイト先の居酒屋の社員になったかた。
住む場所もそのまま。
 
ベスパに乗っているのが「学生」だった名残っぽい。
さすが芸術系の大学卒であってオシャレ坊主が似合う方。
当時は就職超氷河期。
バイト先にそのまま就職。
住むところもそのままというのも結構あったなぁ。
90年代中頃のオーバー22のヒトツの典型的な風景。
 
メゾン忠在地は玄関がヒトツ。
靴を脱いで
それぞれの部屋に入る構造でした。
玄関にはいつもいくつも靴があった。
玄関に鍵もかかってない。
 
靴盗難事件が何回か発生した。
僕も一回やられた。
お気に入りのモンクストラップの靴。
 
二階堂さんが僕の部屋にきて言うには、
 
自分の友人が靴を盗まれた。その靴とわたしの履いている靴がよくにている。
 
って、、、失礼やろ!!
 
結局は友人の靴はリーガルシューズ
僕のはケンフォード。
それで僕のアリバイは成立。
二階堂さん曰く
もしかしたらサザナミさんの靴が盗まれて、僕の友人の靴を勘違いして履いているのではないかな、、、と。
いや、普通気付く。
違和感あるだろ。
・・・・疑ってたな。
 
 
[三越さん]
 
三越さんは精華大の学生。
なんでも一度社会人になったものの
デザインの勉強をするため精華大に入ったとのこと。
 
この三越さん
めったにいないのですよ。
それでもたまーに帰ってくる。
製作活動で大学に泊まっているのかなぁ。。。
なんて思っていました。
 
いちど三越さんの彼女
とおっしゃる方が僕の部屋を尋ねてきた。
なんでも三越さんが行方不明だとのこと。
 
三越さん実家が近いのですが
部屋を借りていたらしい。
その実家にも帰っていない。
彼女なのに連絡が来ないつかない。
ということで捜索に来た
とのことでした。
 
それから2日後に三越さんは帰ってきたので一件落着??
 
敷金・礼金が0円ということもあって、けっこう人の入れ替わりが激しかったです。
 
でも長い人は長く住んでました。
僕も三年住んでので「長いほう」らしいかったです。
 
いま思えばお金もなくて惨憺たる日々でしたが
楽しかったのも事実。
家賃8千円は本当に助かった。
あれから25年、大家さん生きていれば90代。
金持ちは長生きだからまだ生きているかも。

大手筋商店街〜衰退しない商店街の秘密〜

京都で三番目の売上高を誇る商店街。
大手筋商店街に風呂屋町商店街、納屋町商店街(パッサージュ納屋町5番街)、龍馬通り商店街(旧南ナヤ街商店街)、中書島繁栄会が連結している。
大手筋の一筋南の油掛通にも商店が連なっている。
なかなかの面積と店舗数である。
洛南に限らず近鉄京都線沿線最大の商店街かもしれない。
高級なお店を除けば、食事する場所も酒場もたくさんある。
三大メガバンクの支店があることがこの商店街の特徴でもある。
まさに伏見の中心部と言える。
 
商店街の衰退が言われて久しいが、この商店街は元気。
徒歩圏内に京阪伏見桃山、京阪丹波橋、京阪中書島、京阪観月橋近鉄丹波橋近鉄桃山御陵、JR桃山と7つも駅があり、近隣にマンションが増え人口が増加気味なので衰退していないようだ。
周辺の不動産価格の上昇などで、客筋もよくなっているように思える。
 
この商店街に新業態、流行りの業態の小売店が同時期に数店舗立地し、やがて淘汰されていくという「大手筋の法則」と呼ばれている現象がある。
ときとして過当競になるほど出店意欲をそそられる場所ということだろう。
ドラッグストア、100均、美容室、コーヒーショップ、居酒屋、バルが一時期に増えては、淘汰されていく。
 
昔に比べてチェーン店が増えたことを嘆く向きもあるが、個人商店が廃業してシャッター通りになるよりははるかにマシだ。
この街は城下町→港町→酒造の街と構成要素を変化させながら繁栄し続けてきた。
大手筋商店街も常に社会の変化に対応することで、現在の賑わいを維持している。
 
昭和30年代後半、大都市周辺地であるゆえに大型スーパーマーケットの3店舗の早期進出という試練にも直面した。
参考にできる先行事例もなく、大資本進出の暴風を前に商店主達は立ちすくんだ。
しかし出店撤回運動をするのではなく、むしろ共生を図る手法を確立してきた。
大手筋より後に大型スーパーの進出に晒された他の京都の商店街からは融和的すぎると批判された。大手筋の商店主達はこう反論した。
 
あなた方は自らのことばかりではなく、大型スーパーマーケットの進出が消費者にはどのように受けとめられているかほんとうに真摯に考えたことはあるか、反対運動で進出を食い止めている間に商店街として消費者のためにどれだけの努力を重ねてきたのか、と。
 
お店の構成がかわっても大手筋の雰囲気はかわらない。
主婦、学生、サラリーマン、自営業者、子供、ご老人といろいろな人がいる。
人々は立ち話したり、忙しくあるいたり、当然買い物をしたり、バザール的なにぎやかさに溢れている。
整然とした綺麗さやオシャレさとは無縁であるが、猥雑で活気に満ちて庶民の生活臭が濃厚にみなぎっている。
そしてちょっとしたお気に入りの場所がそちらこちらに散在している。
気安いお客さんや商店主が多く、たまにきても地元にいるような錯覚を覚える。
僕はこの商店街が大好きだ。
 
今は80キロ程離れた場所に住んでいるが、ここで用事を足すこともシバシバある。
国道大手筋の交差点、蘇生会病院の角を曲がると、地元に帰ってきたような気持ちになる。
ミスドドトールマクド、モス、サンマルクといったチェーン系のお店に加え、大黒ラーメン、サンチョ、日の又家具、浅野屋、シズヤ、鼓月、ジュバンセル、リンデンバーム、駿河屋、スーパーは生協やイオン。
20年もお世話になっているお店がたくさんある。
商店街のなかにユニクロと無印があれば、いうことなしだ。(付近にはある)
 
いつまでも活気に満ちた商店街であってほしい。
大手筋商店街よ永遠なれ!

伏見デルタで免許をとったときの想い出@伏見区横大路千両松町

大学生の頃、ここで二輪の免許を取った。
事務員さんも講師さんも親切で丁寧な方が多く、嫌な思いは一切なかった。
当時の僕はメンタルヘルスが必要な状態だったと思う。
大学もほとんどいってなかった。
教習を申し込だけど、行くのが億劫で下宿でゴロゴロしていた。
 
ある日、事務員さんから電話があり
 
「そろそろ最初の教習うけはらんと、間に合わなくなりますよ。どうですか明日の14時からいけますよ」
 
とのこと。
既に支払った教習代がもったいないから、いやいや行ってみた。
とても楽しかった。
「やっぱり学ぶってええな、目標もってやるってええわー」と思い直せた。
大学にも行くようになった。
自分が立ち直るきっかけをくれた場所だった。
 
その後、社会人になって地元の教習所へ四輪免許取得のため通った
。事務員も講師もデルタと比べると、随分とレベルが低く腹がたった。
今思えば、この地元の教習所が普通の教習所だったのかもしれない。
 
デルタは20年以上たった今でも懐かしい。こんどは大型の免許でお世話になりたい!
 
伏見デルタ最高!

サラダの店サンチョ伏見店@京都市伏見区

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伏見の人々に愛されている伏見らしい名店。
天井が高く居心地がいい。肉料理がおいしい。
 
映画の話をするカップル達。
女子会らしき集まりは再会を喜び賑やか。
テニスサークル帰り学生達は肉とご飯を頬張っている。
若いサラリーマンはスポーツ新聞片手に一人飯
作業着のおじさんは伝票整理に忙しい。
年配の女性はグラスワインを飲みながら小説を読んでいる。
 
モザイク柄のように多様性に満ち溢れ、一つの色が支配的になることがない伏見の街、そのまま雰囲気の店内。
 
人生で最も孤独を感じた頃、ここで食事をしていて、他のお客と会話を交わすわけではないけど、場所・空気を共有しているという奇妙な連帯感を感じたときがあった。
 
Billy Joelの名曲「PIANO MAN」を聴くと、このレストランのことを思い出す。
 
Yes, they're sharing a drink they call lonelinessBut
it's better than drinkin' alone
 
客たちは孤独という酒を飲み交わしている。
でも一人で飲むよりはよっぽどマシなのさ。

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大丸百貨店京都店@下京区立売西町

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「大丸さん」
京都の人達は、親しみを込めてこう呼ぶ。
大丸と高島屋は格上の百貨店されている。
両百貨店とも呉服屋として京で創業して以来の長い付き合いであり、京都人がひいきにしているのだ。
伊勢丹の京都進出時、料亭の女将さんが
 
「関東では有名な百貨店さんやろけど、大事な方への贈物となると大丸さんか高島屋さんの包み紙やないとね、、、。」
 
と言っていた。
ちなみに京で創業とは言うものの、大丸は伏見京町で創業。京都と伏見は別立ての街である。
高島屋はその名のとおり近江国高島郡から京に出た商人がオーナーであった。
 
都市坩堝論というのがある。
都市はすぐれた人材、物産やアイディアを吸引して都市の中でメルトダウンさせ新しいものを作りだす機能がある、というものだ。
材木加工等の技術、河合喜三郎、山葉寅楠が浜松で出合い、国産オルガンを作成、カワイ楽器とヤマハが発生したように、都市は既存のものを組みあせて優れたものを作り出すことができるのだ。
今や大百貨店チェーンとなった両百貨店にも当てはまるようだ。
京都が排他的な町ならばこうは行かなかったであろう。
 
大丸は江戸時代には大棚となり大坂にも進出。徒に利を貪らない姿勢は評判だった。
大塩平八郎の乱において特に「大丸は義商なり。打ち壊すなかれ」とされた。
新撰組の羽織は大丸呉服店が作った。お金を払ったのはなぜか鴻池家。(旧三和銀行の起源の一つ)。
ちなみに新撰組の旗は高島屋呉服店が作ったらしい。
 
高度成長期には「売上げ日本一の百貨店」となり三越と並び「西の横綱」と謳われた。
1954年には東京進出。(大丸ではなく同じ大阪のそごうという可能性もあったらしい)
戦後初の在京外百貨店進出に対して、在京百貨店は仕入れ先や問屋に圧力をかけることで対抗しようとした。
当時の大丸社長北沢敬二郎は「社運を賭してこの事業を達成させなければならぬ」と決意を表明。
大丸東京店は1年目から黒字化。東京進出を見事に成功させた。
 
何かの本で、大丸東京進出時の北沢の心境は「王将」の歌詞と同じ気分だった、と言っていたのを目にした覚えがある。
在京百貨店に嫌がらせを受け、北沢のあきんど魂に火が着いたとのこと。王将の一節を引用する。
 
明日は東京に 出てゆくからは
何が何でも 勝たねばならぬ
空に灯が点く 通天閣
オレの闘志が また燃える
 
北沢は長く住友で奉職した後に大丸の社長となった。
戦前生まれの人間だが、出身は山形県米沢市である。
「西の横綱」として東京へ乗り込んだ百貨店の社長は、東北出身だったということになる。
 
バブル崩壊後業績は低迷。奥田務(元トヨタの会長奥田碩実弟)が社長就任後、不採算店閉鎖、人員削減に取り組み、収益力を業界首位級に押し上げた。
 
心斎橋店、梅田店、京都店、神戸店等関西各店の「店」は「てん」と音読みせず「みせ」と訓読みする。
それぞれ「しんさいばしみせ」「うめだみせ」「きょうとみせ」「こうべみせ」となる。
東京店、札幌店は対外的には「とうきょうてん」「さっぽろてん」と読む(札幌市営地下鉄南北線さっぽろ駅到着時の車内放送でも「だいまるさっぽろてんにおこしのかたは」と放送されている)が、大丸社内では「とうきょうみせ」「さっぽろみせ」と呼ぶことが多い。
「みせ」と呼ぶのは大丸特有のものではなく、京都・大阪では昔はそれが通常であった。
 
僕は、京都で学生時代+プー太郎生活を送り「これじゃあイカン」と東京で就職活動をした。
二ヶ月ほど頑張ってみたが、世は不景気のまっただなか。
当然、就職活動はうまくいかなかった。
意気消沈で京都へ帰ろうと新幹線に乗る前に「大丸東京店」を目にした。
大丸さんは敵地・東京で大勝利を収めたが、僕は「東京に乗り込んで惨敗」だった。
誰も知らない世知辛い東京砂漠で、大丸さんを見てホッとした。
たぶん、関西から東京に来ている人達は新幹線で帰るときに、同じように感じるのではないかと思う。
見慣れたロゴの「ごちパラ館」(大丸のデパ地下のこと)の京樽で弁当買って帰りの新幹線で食べた。
 
あー、散々やったなぁ。
弁当でも食べよう。
あれっこの弁当ちょっとしょっぱいや。
なんかよく見えないし。
おかしいなぁ、おかしいなぁ。
あっ、オレ泣いてら。
あはは・・・。

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近江鉄道について

大都市間輸送という「ドル箱」を持たない地方私鉄である。

沿線に工場が立地し通勤客が、周辺は地方としては学生・生徒が多いなどの要素がありなんとか存続している。

近江鉄道自身の経営も素晴らしいものがある。中古車輛、本社は廃校舎の再利用だった。

しかし安全には集中投資ー。

JR西の尼崎脱線事故前から自動列車停止装置(ATS)の導入を進め、事故後には、苦しい財布から更に、14カ所に追加整備。

人命重視のヒューマニズムは、公共交通を担う会社としては当然のことでもあるが、注目に値するのは、同社鉄道部長高木氏の次の言葉。

一度でも事故を起こしたら会社がつぶれるから、安全面だけは節約できませんシビアな経営姿勢を物語る選択と集中の厳密なリアリズム。

まさに「辛苦是経営」。

こうでないと構造的に苦しい地方私鉄は存続できない。

「辛苦是経営」を徹底できなかった地方鉄道のなんと多いことか!!

そして懐かしむべき故郷の風景を奪われた沿線住民のなんと多いことか!!

地方公共交通機関の救世主といわれている両備ホールディングスの会長も「近江鉄道さんは非常にがんばっている地方私鉄だ」との旨、おっしゃていた。

 

鉄道事業というもは今日「赤字が出て当然のビジネスモデル」となっているらしい。

朝日新聞はこの地方鉄道をこう賞賛している。
ドル箱路線もない、地方の私鉄が1世紀を超えて生き残った「奇跡」は、近江商人の知恵が経営に生き続けているから起きたのではないか――。そう思えた。
 

まったく同感である。

 

出町座 映画(館)好きには行ってもらいたい映画館@上京区三芳町

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単館上映の映画のワンシーンのような映画館。

映画好き、映画館好きならばここの雰囲気を味わうだけでも1800円の値打ちはあるだろう。
古い商店街のなかにあるという立地、上映作品、雰囲気ともどもシネコンでは味わえないものがある。
シネコンが日本に登場する前から、映画が好きな人ならば是非訪れてほしい。
映画館の人達がそろってサブカルな雰囲気なのがちょっと可笑しかった。
しかし、こういった雰囲気の映画館を持ちえるところが、京都という街の素敵な部分である。
この街が日本における、伝統文化の卸元にして前衛文化のトップランナーであることを実感できる。

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旧坂田郡新庄村について

明治22年、新庄村は岩脇村、西円寺村、箕浦村、寺倉村、能登瀬村、多和田村、日光寺村、顔戸村、高溝村及び舟崎村と合併、息長村となる。

おそらく首邑はとなりの能登瀬であったであろう。
国道8号が縦貫していること、坂田駅に近いこと、旧の近江町役場があったことから、現在は顔戸地区が賑やかである。
昭和30年に息長村は坂田村と合併し近江町となる。
近江町は平成17年に米原市に合併し、今に至る。集落は近江風の住宅が数多く残り郷の風情をよく残している。
道が狭く全面的な新築となると難しいのではないか。
消防法の規定により減歩しなくてはならないだろう。
新庄地区は桜並木で有名であり、開花の時期には夜のライトアップなどを行っている。
昔は箕浦城が置かれ、街道を扼する場所にあったようだ。

旧坂田郡息長村について

明治22年に岩脇村・西円寺村・箕浦村・新庄村・寺倉村・能登瀬村・多和田村・日光寺村・顔戸村・高溝村・舟崎村のが合併して息長村が発足。

息長村は昭和30年に坂田村と合併して近江町が発足。
平成17年近江町は米原市と合併現在に至る。
 
米原警察署息長警察官駐在所付近は農協跡(現在はデイサービスセンター)、児童館跡、息長小学校がなどがあり、旧息長村の中心部であったことが窺える。昭和20年代は警察が自治体単位であり、その時代には村立息長警察であったのだろう。

ヴィラ伏見@伏見区風呂屋町

かなり昔ですが住んでいた。

大手筋商店街にも近く便利。
京阪伏見桃山駅近鉄桃山御陵駅へは大手筋のアーケードを通っていける。
雨に濡れなくてよい。
 
物件は古くなっている。
その分御家賃安め。
徒歩圏内(2km)に駅が幾つもある。
伏見は原付か自転車が移動に便利。
確かに自転車駐輪場が狭いのは問題。
コイン式の洗濯機と乾燥機が2階と4階に1台設置されている。
エレベーターは設置されていない。
現在は消防法の規定で4階建はエレベーターが設置すべきだったと思う。
規定が作られる前の施工だったのであろう。
4階以上に住むと不便。
4階に住んでいたが、3階まできて4階についたつもりになったことが何回かあった。

ブーランジェリ ブロン@深草大亀谷八島町

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京都教育大学の近く。
京阪墨染駅JR藤森駅の中間の場所にある。駐車場も有る。
南欧風の洋館をモチーフにしたマンションの1階にある。
お店の前には小さい池があり、鯉が泳いでいる。
店内はそれほど広くない。
 
住宅街にある近所のパン屋さんといった雰囲気。
パンのバラエティは豊富でどれも美味しそう。
ラクスやクッキーも売っている。
あんを使ったパンが評判。
素材にこだわりパンを作っている。
伏見の天然水を使った食パンが人気らしく、取り置きしている食パンがいくつもあった。
自分がパンを選んでいる間にも取り置きの食パンをいただきに来た方がいた。直感的に「あっここはおいしいパン屋さんだ」と思った。
値段もそれほど高くなく良心的。
普段使いにも良いボリュームと価格。
パンを常食と考える僕にはちょうどいい。
 
家に持ち帰るとおいしそうな小麦の香りがして期待がたかまった。
翌日の朝パンをいただいた。
どれもおいしかった。
パンの生地がもちもちしてしっとりしている。
小麦の香りが翌日も残っていた。
どうやって焼くんだ、これ。
うまい。
 
特に塩パンがうまかった。
シンプルなパンがうまいって相当なものだな、と思いながら食べた。
また行こう。
(再訪)
今度は評判の伏見の天然水でつくった食パンをいただこうかな。次の週に早速再訪。
伏水の食パンをいただく。
うまい。
ホテル食パンのよう。
なぜか耳付近がうまい。
買ってきた翌日はそのままいただき、次の日は軽くトーストしてバターをぬっていただいた。
うまい。
フランスアンパンもうまかった。

伏見桃山総合病院@伏見区下油掛街

まだ大橋総合病院という名前だった頃、2度ほど入院したことがある。
二度とも大学生なのに過労だった。先生は親切な方で、大変に心配してくれた。
 
死ぬほどの病ではないが、一人暮らしの学生で、生活費の殆どを賄うためのアルバイト、学業、地域ボランティアと忙しい時期が重なって2月末頃に体調を崩していた。
入院したことを親元に伝えてもらったが、二度とも両親はこなかった。
二カ月後の桜の時期の京都には夫婦揃ってきたのだが。
 
そんな中でこの病院に入院して、手厚く看護していただいたことがどれほどありがたかったか。
二度ほど救われた思いがしている。
あれから二十年ほほどたったが、いまでも忘れられない。
この病院に入院したときの暖かい想い出が、いまでも伏見が大好きな理由の一つである。

旧坂田郡本郷村について

本郷地区は現在は米原市であるが、以前は山東町、さらにその前は東黒田村であった。
現在でも東黒田駐在所があることなどから東黒田村の首邑は長岡であったのだろう。
長岡は東海道線近江長岡駅があり、旧山東町役場もあった場所である。
この周辺がどういった意味で「本郷」なのか不思議だった。
東黒田村より以前、黒田六郷というのがあったらしい。本郷、堂谷、大鹿、志賀谷、北方、山室がこれにあたる。現在も地名として残っている。
この六郷の中心が「本郷」であったということらしい。
この付近を室町時代に治めていたのが黒田氏である。近江の守護大名佐々木氏(京極氏)より別れた氏族である。
さらに黒田如水の姫路の黒田氏は、この近江の黒田氏より別れたという説があるらしい。
 
近江は立派な公民館をもつ字が多い。公民館と称さず集会所、会議所、会館となっている場合が多い。
滋賀県は昔からの村落がよく残っている。
地方としては人口減少が少ない土地柄ゆえ思われるが、村落共同体も伝統的に強いのではないかと思う。
この本郷公民館はいままでみた字の公民館・集会所・会議所・会館でも最も立派なものと思われた。
さすがは「本郷」である。
本郷会館には「御屋形跡」の石碑がひっそりと立っている。
 
近くには旧山東西小学校跡もある。
山東東小学校は長岡にあったため、旧山東町でも首邑長岡と並ぶ村であったのだろう。

米原駅〜ビッグステーション付近が開発されない理由〜

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米原駅西口

 

東海道新幹線の停車駅、JR東海JR西日本の新快速の始発駅、北陸線の始発駅。
JRのない東近江市八日市方面へいける近江鉄道の始発駅。
 
駅構内には改札付近にセブンイレブン(7:00〜21:30)とホームにそば屋、在来線駅内に井筒屋さんのお弁当の出店。
新幹線駅構内にキオスク、西口付近に小さな食堂がある。
どのお店も営業時間は短い。
西口を出る居酒屋山内牧場、イタリアンレストラン
ちょっと歩くとたい風ラーメン、ほっかほか弁当、ファミリーマートがある。
東口付近には個人経営の喫茶店
駅から出て周辺を楽しむというのはちょっと厳しいかもしれない。
スタバかドトールぐらいあってもよさそうだが、どちらもない。
昔はジュニアデパート形式の平和堂が駅前にあったが、閉業。
フレンドマートとしてリニューアルオープンした。
 
周辺は駐車場が多い。
新幹線停車駅、各種の始発駅のためやむを得ないが、これがビッグステーションたる米原駅への周辺の発展を阻害している一番の要因。
干拓により生み出された土地は政策的理由から安く払い下げられたが、今となっては固定資産税対策で駐車場。
せめてタイムズパークのような無人にすればよいが、さして愛想もよくないオジさんが朝から小屋に詰めているとう状況。
無人にして他の仕事すればいいのに。
出勤する身としては著しく勤労意欲を削がれる。
また駅周辺への商業施設等の集中を阻害していると思うと、少々どうなんかぁ〜って思う。
 
田舎で育った私が通学に利用していたのは、国鉄の風色濃く残る在来線だった。
駅員というのは横柄なもんだな、と高校生ながら思っていた。
 
大学で関西に出て、京阪淀屋橋駅の改札口で絶叫するように、おはようございます!いってらっしゃいませ! という駅員さんを見て、さすが私鉄王国関西だと驚いた。
京阪沿線の小さな駅の近くに住んでいたときは、駅員さんが朝は いってらっしゃい 、夕方は おかえりなさい、と言ってくれてた。
今でも憧れは阪急だけど、好きなののは京阪。
 
そののち仕事で田舎に住んだ。
やはり私鉄でもJRでも駅員はさして親切ではなかった。
滋賀に移り住んで最初に米原駅の改札を出たとき、JR西日本の駅員さんが ありがとうございました、と言ってくれた。
あぁ、関西に帰ってきたのだな、と嬉しかった。
 
駅のロータリーは最近できた。ロータリーの構造やら乗り方がよくわからない他県の方が、結果としてマナー悪くなるようだ。
滋賀だけじゃなくてほかの県の方もよく利用される駅。
しかも車できて新幹線乗る的な使い方をしているようだ。
自分の印象ですが、滋賀ナンバーの方はおしなべてマナーがいいように思う。
 
ちなみに米原駅周辺には適当なビジネスホテルが少なく、東横イン行ったと言う状況である。
予約は以下のサイトから行うのが良いのではないでしょうか。

近江孤篷庵(紅葉の名所)@長浜市上野町

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里山の名庭園はきれいさび日本三大茶人・小堀遠州菩提寺

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枯山水と池泉回遊式庭園。いわゆる「きれいさび」の庭園。白洲正子も愛した庭。廃寺同然であったが地域の人々が手をいれて徐々に復活させていった。

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やがて人間国宝級の絵師や庭師も共感して協力、現在のような形となった。この廃寺名園復活の話を聞いたとき、やはり近江人は大したものだと目の覚める想いがした。
物の価値を理解する文化的素養と、毀つことなく丁寧に保っていける勤勉さこそ、近江人の偉大さだ。近江は長閑な場所ではあるが、千年以上前から現在に至るまで、単なる鄙びた田舎であったことはない。
素晴らしいものが野山の中に点在し、素晴らしい価値観と行動様式を持った近江人たちがいるのだ。
晩年、近江に傾倒した白州正子の言葉によれば「近江は日本の歴史の舞台裏」だそうだ。近江の地は遠景も中景も近景も美しい。
 
古いものが廃れることなく、よくその姿を保っている。
水は清冽で、山や野良は掃き清めたように手入れされている。
寺社や古い住宅は、独特の美の基準を持っているかのように思える。
 
自然と人間の造作というよりは、鉛筆で描いたように美しい。古くは俳人松尾芭蕉が終の住処として定め、白州正子、遠藤周作司馬遼太郎文人も近江と近江人を深く愛したことも頷ける。

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