★さざなみの大八洲★〜さざなみのおおやしま〜

滋賀県、関西を中心に書きます

大丸百貨店京都店@下京区立売西町

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「大丸さん」
京都の人達は、親しみを込めてこう呼ぶ。
大丸と高島屋は格上の百貨店されている。
両百貨店とも呉服屋として京で創業して以来の長い付き合いであり、京都人がひいきにしているのだ。
伊勢丹の京都進出時、料亭の女将さんが
 
「関東では有名な百貨店さんやろけど、大事な方への贈物となると大丸さんか高島屋さんの包み紙やないとね、、、。」
 
と言っていた。
ちなみに京で創業とは言うものの、大丸は伏見京町で創業。京都と伏見は別立ての街である。
高島屋はその名のとおり近江国高島郡から京に出た商人がオーナーであった。
 
都市坩堝論というのがある。
都市はすぐれた人材、物産やアイディアを吸引して都市の中でメルトダウンさせ新しいものを作りだす機能がある、というものだ。
材木加工等の技術、河合喜三郎、山葉寅楠が浜松で出合い、国産オルガンを作成、カワイ楽器とヤマハが発生したように、都市は既存のものを組みあせて優れたものを作り出すことができるのだ。
今や大百貨店チェーンとなった両百貨店にも当てはまるようだ。
京都が排他的な町ならばこうは行かなかったであろう。
 
大丸は江戸時代には大棚となり大坂にも進出。徒に利を貪らない姿勢は評判だった。
大塩平八郎の乱において特に「大丸は義商なり。打ち壊すなかれ」とされた。
新撰組の羽織は大丸呉服店が作った。お金を払ったのはなぜか鴻池家。(旧三和銀行の起源の一つ)。
ちなみに新撰組の旗は高島屋呉服店が作ったらしい。
 
高度成長期には「売上げ日本一の百貨店」となり三越と並び「西の横綱」と謳われた。
1954年には東京進出。(大丸ではなく同じ大阪のそごうという可能性もあったらしい)
戦後初の在京外百貨店進出に対して、在京百貨店は仕入れ先や問屋に圧力をかけることで対抗しようとした。
当時の大丸社長北沢敬二郎は「社運を賭してこの事業を達成させなければならぬ」と決意を表明。
大丸東京店は1年目から黒字化。東京進出を見事に成功させた。
 
何かの本で、大丸東京進出時の北沢の心境は「王将」の歌詞と同じ気分だった、と言っていたのを目にした覚えがある。
在京百貨店に嫌がらせを受け、北沢のあきんど魂に火が着いたとのこと。王将の一節を引用する。
 
明日は東京に 出てゆくからは
何が何でも 勝たねばならぬ
空に灯が点く 通天閣
オレの闘志が また燃える
 
北沢は長く住友で奉職した後に大丸の社長となった。
戦前生まれの人間だが、出身は山形県米沢市である。
「西の横綱」として東京へ乗り込んだ百貨店の社長は、東北出身だったということになる。
 
バブル崩壊後業績は低迷。奥田務(元トヨタの会長奥田碩実弟)が社長就任後、不採算店閉鎖、人員削減に取り組み、収益力を業界首位級に押し上げた。
 
心斎橋店、梅田店、京都店、神戸店等関西各店の「店」は「てん」と音読みせず「みせ」と訓読みする。
それぞれ「しんさいばしみせ」「うめだみせ」「きょうとみせ」「こうべみせ」となる。
東京店、札幌店は対外的には「とうきょうてん」「さっぽろてん」と読む(札幌市営地下鉄南北線さっぽろ駅到着時の車内放送でも「だいまるさっぽろてんにおこしのかたは」と放送されている)が、大丸社内では「とうきょうみせ」「さっぽろみせ」と呼ぶことが多い。
「みせ」と呼ぶのは大丸特有のものではなく、京都・大阪では昔はそれが通常であった。
 
僕は、京都で学生時代+プー太郎生活を送り「これじゃあイカン」と東京で就職活動をした。
二ヶ月ほど頑張ってみたが、世は不景気のまっただなか。
当然、就職活動はうまくいかなかった。
意気消沈で京都へ帰ろうと新幹線に乗る前に「大丸東京店」を目にした。
大丸さんは敵地・東京で大勝利を収めたが、僕は「東京に乗り込んで惨敗」だった。
誰も知らない世知辛い東京砂漠で、大丸さんを見てホッとした。
たぶん、関西から東京に来ている人達は新幹線で帰るときに、同じように感じるのではないかと思う。
見慣れたロゴの「ごちパラ館」(大丸のデパ地下のこと)の京樽で弁当買って帰りの新幹線で食べた。
 
あー、散々やったなぁ。
弁当でも食べよう。
あれっこの弁当ちょっとしょっぱいや。
なんかよく見えないし。
おかしいなぁ、おかしいなぁ。
あっ、オレ泣いてら。
あはは・・・。

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