滋賀夕刊 なぜ村を出ていくのか
★滋賀夕刊 2007年10月22日 時評 なぜ村を出てゆくのか★
伊香郡の最果て、美濃と近江の県境にあった八草村から、彦根市の鳥居本の男鬼(おおり)へかけての典型的な廃村の歴史を追ったが、その取材の過程で知ったことは、昔の人の強じんな体力と生活意欲であった。
もう一つ驚いたのは、測量技術も空からの航空写真もない時代に、何千、何万㌶の山から山への地籍や県境、郡境をどうして決めたのか。また、その名前の由来など、考えれば考えるほど謎めいて、まるで深い山の迷路に行きついたような思いである。
村人にとって、村を離れることは、村を捨てることにひとしい。祖先以来、地域が一体となって助けあい、励ましあってきた血族集団がその伝統と歴史に別れを告げて、散り散りに下山することの悲哀は断腸の思いだったと思われる。
しかし、よく調べると、不思議な思いにゆき当たる。それは、電気のない、荷車も通れない不便で不文明な時代は山の中で発展的、意欲的な生活をして、さながら小王国のような集落形成を維持してきながら、明治の代になって、道が開き、電灯がつき、町との行き来が便利になってから人々は村を離れるようになった。
これは米原市の榑ケ畑、その他の戸数や人口の推移資料を見るまでもなく、現在のように通信、交通、情報の発達した時代でさえも流行のように村を離れる、いわゆる限界集落が出現し始めた。
いままでは、背板(せた)に炭や割木を負って、10㌔から20㌔の険しい山路を下りて、里へ物々交換をしなければならなかったのに、荷車で大量の荷を運べるようになり、さらには自動車で短時間に多量の物資を運び、行き来も連絡もスピード化したことを思えば山に極楽の風が吹いたようなものである。
村の共存共栄がますます盛んになって当然と思われるのに、事実は逆の現象となった。
明治に入って、道がよくなり、村の近くまで交通機関の恩恵が受けられるようになってから人々は村を離れ始めたのである。
この都会指向の、田舎離れは、文明の進化と産業構造の変化によるところが大きい。その一つは余呉町の奧川並や米原市の榑ケ畑村に見られるように燃料革命による木炭、薪などの林産品の不振があげられる。
今一つは、交通の至便による都会との交流により、就職活動が容易になったことである。
これは明治期以降の産業革命のもたらす影響といっていい。つまり大工場が出現し、その影響による周辺企業の定着、活性化が労働力の需要をまねき、必然的に村から町への流動を促した。
エネルギー革命、産業革命、交通・通信の近代化は、同時に医療、教育の充実発展につながり、今日の大都市への人口集中現象に拍車をかけた。
このような人為的文化のもたらす人口移動に輪をかけたのが雪害という自然の脅威からの逃げだった。
さらに言えることは、集落内の若ものの職業分化が多岐、複雑になり、村人の生活空間の一体化にひびが入ったことである。それは青年会、婦人会などの低調さや解散にみられ、伝統的村意識の崩れを意味する。
住みなれた村を離れるのは容易なことではないが、生活に行き詰まり、借金が積もり、他に打開の道がなければ、都会や新天地に再興の夢をかき立てるのはあり得る話で、江戸期のような往来の制限された抑圧からの解放感も手伝った。
このほか、新しい村離れの原因の一つは、都市的文化生活への憧れ、子供の教育、古い村のしきたりからの逃げ、なども上げられるし、老人比率の上昇からくる若ものへの村の経営管理への比重の重みも離村の間接的影響となっている。【押谷盛利】
関西電力 金居原発電所計画の中止について
関西電力株式会社 プレスリリース 2002年11月19日
金居原発電所(仮称)建設計画の中止について
当社はこれまで、金居原発電所(仮称)建設に向け、準備工事を進めておりましたが、この度、この計画を中止することとし、本日岐阜県、滋賀県をはじめ関係各所に中止の申し入れを行いました。
金居原発電所(仮称)建設計画は、平成10年代中頃の電力需要の伸びに対応するため、岐阜県坂内村と滋賀県木之本町に、出力228万kWの揚水発電所を建設するというもので、平成8年3月、電源開発調整審議会の承認を経て、平成10年10月から準備工事を実施してまいりました。
しかしながら、この間の電力需要動向は大きく様変わりし、昨今の長引く景気低迷や省エネルギーの進展、負荷率の改善といった需要構造の大きな変化により、当社においてもピーク需要が大幅に伸び悩んでおります。さらに、電力自由化範囲の拡大に向けた議論の進展など、電気事業を取り巻く経営環境は今後も一段と厳しさを増すことが予想され、当社も今後一層の経営効率化を図っていく必要があります。
このような状況を踏まえ、誠に残念ながら、本計画を中止せざるを得ないとの結論に至ったものです。
これまで本計画の推進にあたり、多大なご理解やご協力をいただきました地元の方々をはじめ、関係者の皆様には深く感謝申し上げますとともに、かかる結論に至りましたことにつきまして、何卒ご理解を賜りますようお願い申しあげます。
以上
なぜ関西電力(株)は国道を施工したのか、そして止めたのか?
昨年まで岐阜県揖斐郡に住んでいました。その当時は週末毎に近江に赴いていました。揖斐郡から近江へは国道303号をつかって木之本町に抜けるルートが最短です。現在は八草トンネルで滋賀・岐阜県境を越えるますが一昔前までは「八草峠」を越えるルートでした。国道に指定されていながらも通行が困難な箇所を「酷道」というらしいです。この「酷道」を通行することを趣味にしている「酷道マニア」というも人たちもいてはるらしいです。
滋賀県と岐阜県を結ぶ国道303号線の八草・金居原バイパスが全面完成し、11月14日に開通する。従来1時間ほどかかっていた峠越えが12分に短縮される。
木之本町の山奥と岐阜県揖斐川町坂内を結ぶ幹線道路の総事業費は130億円とのこと。この費用の大半を出しているのは、関西電力である。国道なのになんで関西電力が費用負担をしているのか。そのわけを説明しよう。岐阜県との県境にある木之本町の金居原地区には、関西電力の大規模な揚水発電所が建設されることになっていた。
揚水ダムや水力発電所等の建設費は4600億円とも言われていた。その工事用道路としてバイパスが必要であったわけだ。しかし、揚水発電所建設の計画は、関電自身が頓挫させた。エネルギー事情云々と理由をつけているが、原発の夜間余剰電力を消費する大規模な揚水発電所建設から、「エコキュート」へ方針転換したからだ。だけど、地元に約束した国道バイパスは完成させなければならない。という次第で、将来もほとんど交通量が望めない区間に、超デラックスな国道が完成してしまった、というわけ。
割をくったのは、地元・木之本町である。関電から入る巨額の固定資産税をあてにしていたからだ。それが全部すっとんだ。これが回り回って、湖北の市町合併のネックとなっている。財政力の極めて弱い木之本町は、多額の町営住宅家賃滞納問題で、合併の仲間へ入れてもらえるかの「黄信号」が点滅している。
一時は「ダム課」まで設けて、全てを関電さまに神頼みしていたのに、裏切られてしまった木之本町は、同和対策の負の遺産「住宅家賃と住宅新築資金等の貸付金償還」にあえいでいる。
北近江と西美濃を結ぶ八草峠
かつて滋賀県湖北地域振興局木之本建設管理部の古道紀行にあった一文
八草峠は、滋賀・岐阜県境にある金糞岳と土蔵岳の中間に位置します。現在行っている国道303号バイパス工事のうち八草トンネルが平成13年に開通するまでは、国道303号がこの峠を通っていました。昭和25年にできた八草林道が県道となり、昭和43年に国道に昇格したものです。
この道路ができるまでは、400mほど北にある日の裏峠(越え)、さらに北の登谷とイ坂を結ぶ旧八草峠が、北近江と西美濃の交流を支えていました。旧八草峠は、久加(日坂)越えといわれ、山を埋める樹木の中にきこり道が細々とついているだけでしたが、近江の金居原と美濃の川上、徳山を結ぶ主要な峠でした。この峠には、彦根藩2代藩主井伊直孝が領地検分の折りに植樹したといわれる松があり、直孝松と呼ばれています。
幾重もの山並みにへだてられた北近江と西美濃でしたが、今日考えられる以上に交流は活発だったようです。婚姻による人の交流をはじめ、炭、薬草、楮(こうぞ:美濃紙の原料)等の物資、情報、文化、あらゆる面で強い結びつきが認められます。山を生業とする人々にとって山並みはへだたりではなかったようです。
国道303号八草峠付近小史@長浜市木之本町金居原付近
岐阜県揖斐郡揖斐川町から滋賀県へは国道303号をつかって木之本町に抜けるルートが最短です。現在は八草トンネルで滋賀・岐阜県境を越えるますが一昔前までは「八草峠」を越えるルートでした。国道に指定されていながらも通行が困難な箇所を「酷道」というらしいです。国道だった303号の岐阜県揖斐郡揖斐川町坂内〜滋賀県長浜市木之本町金居原区間も現在は立派な国道となりました。かつて50分以上かかっていた県境区間が現在では15分程度で抜けられます。
ちなみに「険道」(けんどう)、「死道」(しどう)というのもあるそうな。国道303号八草峠付近は「酷道」マニアには有名なスポットだったそうです。現在岐阜県側でもっとも県境に近い字は「揖斐川町坂内川上」です。同様に滋賀県側でもっとも県境に近い字は「木之本町金居原」です。川上と坂内の間の国道303号の改築工事が行われていましたが、工事が終了して平成20年11月14日(金)午後3時に全線開通しました。今は揖斐川町坂内まではスイスイいけます。揖斐川町坂内・藤橋の人たちが高速道路に乗ろうとすれば、1時間半ぐらいかけて名神関ヶ原インターまでいかなければならなかったのが、1時間程度で北陸道木之本インターにいけるようになりました。僕にとっては酷道303号は岐阜在住時代の「近江通い」に使った道です。僕が近江に移住した年にバイパスが全線開通とは皮肉なものです。冬期間の通行止もなくなりました。坂内村・金居原村間については酷道303号をよく使っていただけに、興味もあり、いろいろと調べていました。今回ちょっとまとめてみようかな、、、とずっと思っていました。
◆江戸時代初期(詳細年代不明@八草村◆
熊谷、佐波、長谷川、牧野、山本の五家居を構える。藤井神社を鎮めて八草村を興した。
◆江戸時代初期@八草峠◆
彦根藩2代目 直孝公、八草峠付近に松を植える。その松は直孝松と呼ばれるようになる。当時の八草峠(日阪・久加越え)はキコリ道程度のものだった。
◆江戸時代中期 明和時代@八草村◆
住家は30戸を超え住民は140人に増えた。生業は焼き畑と山仕事。
◆江戸時代~明治時代@八草峠付近◆
婚姻、炭、薬草、楮(こう)等の物資、情報、文化、あらゆる面で強い結びつきが認めらる。毎月8日末の木之本地蔵縁日のため村を上げての整備が行われていた。縁日の市で西美濃北部の特産品を売るため。大垣藩は炭などは大垣で売るようにと、お触れを出す。近江国境に近い山村では峠を越えて近江で物資を売る傾向が強かった。理由は「近江のほうが値が高いから」。
◆明治23年@岐阜県側◆
揖斐-東横山間(坂内の手前)が北山街道として呼ばれるようになる。この区間の道路改修が進んだため。
◆明治27年@岐阜県側◆
西横山から広瀬を経由し川上までの坂内街道が整備される。揖斐から北山街道・坂内街道が整備されたことになる。揖斐と坂内の結びつきが強くなる。この時期、八草村の生活が困窮するようになる。
◆大正8年@八草村◆
八草村廃村。岐阜県側で最も滋賀県境に近い集落は、坂内村川上集落となる。
◆昭和22年@八草峠付近◆
峠の両側で林道としての整備が進めれる。川上~八草峠~杉野村金居原までが坂内村・杉野村の双方から林道として整備が進められたが途中で放棄。坂内村の人々は、炭焼きなどの仕事の片手間に自発的に林道開削工事を継続する。坂内村は岐阜のもっとも奥にある村であり、「第二の八草村を出すな」という意識があったものと思われる。伝統的には近江とのつながり峠越による経済的恩恵を受けてきた地域。北近江に抜ける道があれば「岐阜県の先っぽ」ではなく「滋賀県への回廊」の位置を占めることができる。
◆昭和25年@滋賀県側八草峠付近
八草林道開通、県道へ昇格。
◆昭和26年@岐阜県側八草峠付近◆
八草林道開通。
◆昭和39年@藤橋村横山◆
横山ダム完成。
◆昭和43年@滋賀県側八草峠付近◆
「八草林道」が県道が国道に昇格。
◆昭和45年@岐阜県側八草峠付近◆
国道303号岐阜木之本線に昇格。
◆昭和45年@揖斐川町から横山ダム◆
新北山トンネル、久瀬トンネル、名倉トンネル、樫原トンネル、椿井トンネルをを含む揖斐川町から横山ダム間の国道303号の整備が開始。
◆昭和61年@揖斐川町から横山ダム◆
国道303号揖斐川町から横山ダム間の道路整備完了。県単位のインフラ整備、付近に横山ダム(中部地方整備局管理)、徳山ダムの計画があったこともあり岐阜から坂内方面への道路、インフラが整備される。必然的に坂内は揖斐・大垣方面へ目が向かうことになる。いっぽうで滋賀県方面への峠越のルートは打ち捨てられたまま。行政によって「県境」が固まっていく事例ですなぁ。。
◆平成6年@国道303号八草・金居原バイパス◆
急峻な山岳地帯を縫っていた旧国道の改築工事として八草・金居原バイパス工事スタート。
対象延長:9.7キロ
滋賀県側:5.1キロ
岐阜県側:4.6キロ
◆平成13年@国道303号川上バイパス◆
岐阜県側で国道303号八草・金居原バイパスに接続する国道303号川上バイパス共用開始。
◆平成13年@国道303号八草・金居原バイパス◆
県境にあたる八草トンネル約3.4キロ開通。付近で「金居原発電所(仮称)」を計画している関西電力が施工主体。
未改築延長:6.3キロ
滋賀県側:3.6キロ
岐阜県側:2.7キロ
◆平成14年@金居原バイパス◆
金居原集落部分のバイパス工事完了。金居原バイパス部分約1.7キロ供用開始。付近で「金居原発電所(仮称)を計画している関西電力が施工主体。
未改築延長:4.6キロ
滋賀県側:1.9キロ
岐阜県側:2.7キロ
◆平成14年@国道303号八草・金居原バイパス◆
関西電力が「金居原発電所(仮称)」建設の中止を発表。工事の進捗の遅れが懸念されるようになる。
◆平成17年頃◆
国道303号をしばしば利用。全線開通を待ち望む。このこの時点で坂内川上から木之本町中心部までは1時間20分程度。いやはや「酷道」でしたよ。昼ぐらいに岐阜県から滋賀県に向かって行くと不思議なことに対向車(滋賀から岐阜に向かう車)はほとんど「岐阜ナンバー」でした。滋賀ナンバーはみかけない。あとで坂内村の方に直接伺ったら「坂内の人たちはけっこう滋賀にいくんですよ。木之本の平和堂もいきますよ。あと湖北総合病院とか。高月までいけばスーパー、書店、百均、マクドナルドまでありますもんね。長浜までも行くこともあるかな。家電量販店もあるじゃないですか。」と普通に湖北の情報が出てくる。(ノ゚⊿゚)ノびっくり!!
未改築延長:4.6キロ
滋賀県側:1.9キロ
岐阜県側:2.7キロ
◆平成18年@国道303号八草バイパス◆
岐阜県側の八草トンネルアプローチ部分約2.1キロ完成、供用開始。完成したときは感動した。「土木ってすごいな!!」と思う。木之本町までの到達時間が10分程短縮される。あとは金居原から八草トンネルへのアプローチができればスイスイいけるハズ。
未改築延長:2.5キロ
滋賀県側:1.9キロ
岐阜県側:0.6キロ
◆平成19年度@金居原バイパス◆
八草トンネル滋賀県側出口付近の八草大橋192mが完成した模様。供用開始はまだ。附属物とか大橋の先の部分がまだ未完成の様子。岐阜県側で残っていた川上集落付近も工事が進んでいる様子。早く完成しろ~。
未改築延長:2.5キロ
滋賀県側:1.9キロ
岐阜県側:0.6キロ
◆平成20年11月14日@国道303号八草・金居原バイパス◆
金居原バイパス1.9キロ、八草バイパス0.6キロが同時開通。これによって国道303号八草・金居原バイパスは全線開通!!
総額約百三十億円
滋賀県側約六十六億円
岐阜県側約六十四億円
約15年の歳月をかけた大工事!!
坂内川上から木之本町中心部への所用時間がかなり短縮。45分程度。坂内川上から金居原までの峠越は国道303号八草・金居原バイパス事業前は約1時間かかったらしい。それが15分に短縮。さらに初雪観測~4月まで行われていた冬季通行止もなくなることになりました。金居原も坂内川上も「どんつき」の村ではなくりました。新聞報道に記載があったのですが、国道303号八草・金居原バイパス全線開通をうけて滋賀県知事・岐阜県知事の知事懇談会が12年ぶりに行われたそうな。隣県とはいえ疎遠なものです。バイパス開通を機に西美濃と北近江の交流が増えることを期待したいものです。
昭和初期には金居原よりちょっと先の「土倉」という場所で日窒が銅山などを操業していたようです。(現在は廃坑)その影響か金居原を流れる杉野川の石は場所によっては赤茶けています。燃料が炭から石炭、やがて石油へ銅山も廃坑となったいまでは金居原は「湖北の秘境」となってしまいました。もともとこの周辺は峠を越えた西美濃の奥地(揖斐郡)とつながりが深かった地域でもあります。杉野川にピカピカする石を最初に発見したもの岐阜県のヒトだったそうな。。平成に入って俄かに関西電力の水力発電所建設の計画がもちあがります。関電が誇る若狭湾の原子力発電所の夜間の余剰電力により水を揚水して発電することが計画されたのです。しかし社会の変化により金居原発電所(仮称)の建設は中止されてしまします。その遺産として国道303号金居原バイパスが建設されました。途中までは「工事用道路」として関西電力が建設した高規格の道路です。交通量に比べて非常に規格のいい道路で「ムダな道路」との批判をうけてしまいそうです。
酒田短期大学顛末記
ネットのコピペ。
自分用の覚書。
画像はこちら
[沿革]
1961年 学校法人林昌学園設立。
1966年 東北短期大学(とうほくたんきだいがく)開学。
1968年 酒田経済短期大学に改称。
1973年 酒田短期大学に改称。
1977年 入学定員を100名に縮小。
1982年 学校法人天真学園と合併して学校法人天真林昌学園を設立。
1986年 学校法人瑞穂学園設立。
1987年 経営を学校法人天真林昌学園から学校法人瑞穂学園に継承。共学から女子のみの募集となる。
1990年 再び共学となる。
2001年 留学生問題が発覚。
2002年10月 資金難で全教職員解雇。休校になる。
2003年1月 酒田労働基準監督署により倒産認定。
2003年3月 最後の卒業生6人が卒業。
2004年7月14日 文部科学省より学校法人瑞穂学園に対し私立学校法違反により解散命令
[中国人留学生は「宝」 大学・短大が受け入れ着々]
雑誌『AERA』2001年04月02日
年を追うごとに、受験生は減っていく。大学経営者は悩んでいる。定員を大きく割り込めば国からの補助金も減るからだ。さあどうする。これはもう中国からの留学生に頼るしかない、と私立酒田短大(山形県酒田市)が、学生募集の対象を海外へと大きくカジを切ったのは、去年春のことだった。開学から約四十年の歴史を持つこの学校で、元理事長らによる不明朗な借り入れが問題化し、いまの経営陣に運営が引き継がれたのが一九九九年七月。悪評が響いたためか、次の年の春に入学した日本人学生は定員百人に対し、推薦合格の九人だけだった。
現地からチャーター便
現経営陣はもともと、東京都内で別に日本語専門学校も経営し、かなりの中国人が学んでいる。中国とのつながりが以前からあり、生き残りのため本格的に学生を募るとき、それを中国に求めるのは、自然なことといえた。少子化が進み、日本人学生のパイは減る一方。そしてみんな有名校に行きたがる。ならば中国から優秀な人材を、と考えたわけです。私学が経営を成り立たせていくためには、自主努力が必要。と短大側はいう。縁のあった吉林(チーリン)、遼寧(リャオニン)、黒竜江(ヘイロンチアン)という東北三省の役所から協力を得て、役所内の「留学センター」を通じ、留学希望者を募った。 現地の試験では、日本語の能力試験と、「短大を出た後、四年制大学に編入するのか大学院に進むのか、本人が明確な将来設計を持っているかどうか」を知るための面接を重視するという。入学時期は、日本人学生の場合は春だけだが、中国人留学生には春と秋の二回となるように学則を変えた。去年春は二十二人だった中国人留学生数は、秋には男女百二十四人。この春は、希望者約四百人に面接し、入国管理局などの審査を経て、最終的に二百四十四人に在留許可が出た。うち約五十人は東京、大阪などの日本語学校から。日本人の入学予定者は六人という。「留学予定者のうち、少なくとも二百人は来てくれるはず」と短大側は期待する。四月下旬の入国の際は、ハルビンから庄内空港までチャーター便を飛ばす予定だ。
中国人職員5人を採用
留学予定の学生は、平均して二十代前半から三十代前半。大多数が中国の大学を卒業後、働いていたという。入学前に払う初年度分の学費百二十万円は、中国ではかなりの高額だが、短大側は、中国には、一人の子供に六人の親がいる、という。本人の収入に加え両親と祖父母四人が助け合い学費を集めるケースが多い、といい、さらにこう話す。ウチは経済の単科短大で、留学生は、日本でビジネスを勉強して将来に役立てたい人ばかり。医大出身も十五人いる。水準が高い。留学生のため、この春、学生課に中国人職員を五人採用。市民にとけ込みやすくするために、短大が直々に、市内に二軒のラーメン店を開く。
(中略)
また一方で、定員の約一・五倍を上回る学生を採れば、これも補助金を失う可能性がある。経営サイドからすれば、この「上限」と「下限」の間で、どう入学者数を調整できるかがカギになる。
10万人計画はいまも
冒頭に登場した酒田短大は、この春、入学予定者が全員来れば、定員の約二・五倍が入学する計算になる。だがここの場合、前経営陣の時代から七年ほど、補助金をもらっておらず、補助金を待っていては、とても経営が成り立たないという事情がある。(後略)
[酒田短期大学留学生問題]
学校の定員の2倍を超える多数の中国人留学生を不法に受け入れ、学生ビザでの日本への労働目的の入国の足掛かりにさせた。留学生の多くは酒田には居住しておあらず、首都圏に居住し不法就労をしていた。そのことが引き金になり資金繰りが悪化、2002年に事実上廃校になった。運営する学校法人瑞穂学園に文部科学省が2004年に解散命令を出した。国所轄の学校法人への解散命令は初めてとなった。みずほ学園短期大学と改称して新学科を設立するという再建策が出されたが実現しなかった。この大学では、この数年前から入学者が激減し、一学年の定員が100人にもかかわらず、全校あわせて81人の学生しかいなかったとということ。そこで考え出したのが中国人留学生の入学。春と秋の2回、中国で選考を行い、その前の秋に140人、その春に226人の中国人を入学させたとのこと。その結果、当時は2学年で352人が在籍していたそうですが、うち339人が中国からの留学生だったようです。そして、10月から中国人265人が入学する予定でしたが、ここで仙台入国管理局から待ったがかかり、在留資格が認めらなくなります。つまり入学が不可能になったということ。その理由として先代入国管理局は「既に1学年の定員(100人)を超過しており、これから入学しても十分な就学活動ができるとは認められない」と定員の大幅超過を理由としています。しかし定員だけではなく、もっと問題となっていたことがありました。それは事実上ここが日本の学生ビザでの日本への労働目的の入国の足掛かりになってしまったことです。留学した生徒の多くは授業に出席せず、労働による賃金獲得を行っていたようです。地元で大学の用意した中華料理店で働く場合もあったようですが、多くは首都圏に赴き、首都圏の4年生大学編入のため、という理由付けがなされ、それをサポートするというか理由付けのためか、都内に授業を放映するサテライトスタジオを儲けていたとのこと。
[酒田短大で最後の6人卒業 存続のめどなく事実上の幕]
中国人留学生問題で揺れた酒田短期大学(山形県酒田市)で14日、最後まで残っていた留学生6人が卒業、学生はいなくなった。今春の入学生もなく、短大存続のめどは立っていない。 酒田短大では一昨年12月、200人近い留学生の首都圏移住が発覚。今年1月に労働基準監督署が学校法人の倒産を認定して閉校状態に陥っており、この日の卒業式で事実上の「幕」が降ろされた。酒田市のホテルで非公開で行われた卒業式には、山形短大に編入した学生や、東京に引っ越したり、中国に帰国した留学生計5人のほか、昨年解雇された教職員28人が出席。 臨時学長代行を務めた佐々木裕造元教授は祝辞の中で「教育理念のない経営陣が起こした問題で、短大の歴史が幕を閉じようとしているのは、慚愧(ざんき)に堪えない」と一連の問題に触れた。
増田荘@京都市左京区岩倉
後にみつけた「増田荘スタジオ」という動画。おそらく違う時期に住んだ方がアップしたものかと。
大手筋商店街〜衰退しない商店街の秘密〜
伏見デルタで免許をとったときの想い出@伏見区横大路千両松町
サラダの店サンチョ伏見店@京都市伏見区
大丸百貨店京都店@下京区立売西町
近江鉄道について
大都市間輸送という「ドル箱」を持たない地方私鉄である。
沿線に工場が立地し通勤客が、周辺は地方としては学生・生徒が多いなどの要素がありなんとか存続している。
近江鉄道自身の経営も素晴らしいものがある。中古車輛、本社は廃校舎の再利用だった。
しかし安全には集中投資ー。
JR西の尼崎脱線事故前から自動列車停止装置(ATS)の導入を進め、事故後には、苦しい財布から更に、14カ所に追加整備。
人命重視のヒューマニズムは、公共交通を担う会社としては当然のことでもあるが、注目に値するのは、同社鉄道部長高木氏の次の言葉。
一度でも事故を起こしたら会社がつぶれるから、安全面だけは節約できませんシビアな経営姿勢を物語る選択と集中の厳密なリアリズム。
まさに「辛苦是経営」。
こうでないと構造的に苦しい地方私鉄は存続できない。
「辛苦是経営」を徹底できなかった地方鉄道のなんと多いことか!!
そして懐かしむべき故郷の風景を奪われた沿線住民のなんと多いことか!!
地方公共交通機関の救世主といわれている両備ホールディングスの会長も「近江鉄道さんは非常にがんばっている地方私鉄だ」との旨、おっしゃていた。
鉄道事業というもは今日「赤字が出て当然のビジネスモデル」となっているらしい。
ドル箱路線もない、地方の私鉄が1世紀を超えて生き残った「奇跡」は、近江商人の知恵が経営に生き続けているから起きたのではないか――。そう思えた。
まったく同感である。