失ってしまったのではない。まだ獲得していないのだ。
某旅番組で紹介されていた。
お料理は大変においしそうだった。
派手で華美な部分はなく、素朴ではある手の込んだ丁寧な地のモノを使ったお料理が出ていた。
特に山菜は素晴らしいものに思えた。
これは都会の五ツ星ホテルでも味わいことはできないだろう。
遠くに親戚の家に伺って、このようなもてなしを受けたらどんなにうれしいことか。
古い民家を使った宿泊施設にありがちな雑然とした雰囲気、どこかソジてしまって手入れが行き届かないまま放置されたような雰囲気もなく、大変整然として綺麗サビを感じさせるような宿の内部であった。
やはり近江の人達にはは「雑味」をきらう美的感覚と生活感覚、丁寧に手入れをしていく勤勉さを習性の如く持っているのだな、と感じる。
宿の人達の言葉使いや振る舞いも、いわゆる「田舎」の人達にありがちな粗雑さからも程遠い。
洗練されていると言ってよかった。周辺の風景や人々の生活もあわせて紹介されていた。
旅館の人々の持てもてなしも含めて、付近の人々の温かみと親しみがありながらも、礼を失しない所作振る舞いに感心した。
自分はもともと湖北の人間でも近江の人間でもないが「クニサカイに近い場所でも、やはり近江人とはこういった人達か」と感心した。
番組の最後に「私達日本人が失ってしまった大事なものが、まだここではしっかり残っていますね」と、俗にいう「田舎」をロケ地とした旅番組の定型句が、その番組でも繰り返されていた。
いや違う。
我々日本人は余呉の近江人たちが現在持っている「大事なもの」を失ったのではない。
有史以来、一度も獲得していないのだ。
かれらはかつての平均的日本人の姿ではなく、まだ到達していない「標準的日本人」の姿なのだ、と。