〜さざなみのおおやしま〜

何でも「少なく、小さく、軽く」が身上のミニマリスト。GAFAMの犬。楽天経済圏の住人。<サラリーマンのテーゼ>について考える。

寝物語の里@米原市長久寺



県境に小溝が走っている。
前を走る道は旧中仙道である。
国道21号今須交差点を北に曲がり進むと南側に見える。
旧中仙道の北側には溝を隔てて民家が立っている。
一間と離れていない。
それぞれ岐阜県滋賀県になる。
この一間で、関ヶ原町今須小学区と米原市柏原小学区、不破郡坂田郡岐阜県滋賀県、中部と近畿、東海と関西、東日本(名古屋的には中日本)と西日本に分かれていることになる。
江戸時代の美濃と近江の国境は、江戸中心の金本位制経済と上方中心の銀本位制経済との境でもあったそうだ。現在の石柱の碑は、私の知っている限り2代目だ。
平成10年代にはもっと簡単なものだった。
あるいは木柱であったかもしれない。
現在の石柱は滋賀県岐阜県が共同で設置したものらしい。
県境から滋賀県側・長久寺は民家が続いているが、岐阜県側・今須は1軒のみ。
旧中仙道と国道21号が交差するのが今須の交差点となり東側には今須の集落が続いている。
つまり現在は国道21号を挟んで、1軒だけが今須の飛び地のようになっている。司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズのなかの「近江散歩」はここから始まる。かつて溝の両側に、それぞれ旅籠があったとのこと。
その旅籠の客同士が寝ながら国境をまたいで寝物語ができたというのが「寝物語の里」の由来だそうだ。
「近江散歩」の一節を借用すると
「ねものがたりの里など、地名として、一見、ありうべきでなさそうに思えるが、しかし中世にも存在し、近世ではこの地名を知っていることが、京の茶人仲間では、いわば教養の範囲に属した」
ということらしい。裏千家四世仙叟宗室作の「寝物語」という江濃の竹を使った二本の茶杓があり、艶っぽい銘から京の茶人の間で評判となり、由来の「寝物語の里」を知っていることは教養の範囲内ということだったらしい。東北出身の私としては県境といえば険しい峠で、道はあっても峠を挟んで暫く人が住んでいないのが普通、という感覚がある。
自然が濃厚で過酷であり、ゆえに自然障壁の用をなし非住地帯となっている、というのが県境のイメージだ。
それに比べて岐阜・滋賀県境は非常にさりげないものに思える。