自分が写真撮るのが上手になったような気がするインスタ映えの神社
近江最古の神社。
祭神は猿田彦。
本殿は国の重要文化財。湖中大鳥居が印象的。
鎌倉時代の絵図では陸上に鳥居が描かれている。
琵琶湖の水位上昇に伴い水中に立つようになったと伝えられている。
わたしは水位の上昇ではなく、地盤の沈降により大鳥居が湖水に浸ることになったのではないかと思っている。
近くに琵琶湖西岸断層帯が走っているからだ。
伝説に基づいて戦前に鳥居の寄進がなされ、昭和50年代に再建された。
湖中大鳥居の風景は近江や湖西(こせい)、高島市を象徴する風景。
観光パンフレットや滋賀県を紹介する印刷物の表紙としてよく利用されている。
『街道をゆく 1』の表紙は湖中大鳥居である。
白村江の戦い以降の避難民が湖西に定住したのではないか、ということである。
司馬は深く近江及び近江人を愛した。
『街道をゆく』といういわば歴史紀行文の執筆依頼がきたときに、まっさき彼は近江に行くことを決めたという。
曰く「近江からはじめましょう」と。
「湖西の道」の書き出しが素晴らしく、わたしは司馬の書いた文章のなかかでもこの一文が大好きだ。
『近江』というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国が好きである。京や大和がモダン墓地のようなコンクリートの風景にコチコチに固められつつあるいま、近江の国はなお、雨の日は雨のふるさとであり、粉雪の降る日は川や湖までが粉雪のふるさとであるよう、においをのこしている。
白髭神社付近にくるとをみると、私は必ずこの一文を思い出す。
また司馬は、近隣の小松集落について以下のように紹介している。
北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠のとびらまで紅殻が塗られて、その赤は須田国太郎の色調のようであった。それが粉雪によく映えて、こういう漁村が故郷であったならばどんなに懐かしいだろうと思った。
第三者に近江の素晴らしさを伝えたいときに、からならずこの一文を紹介している。
わたしの主観的などより、国民的作家の言葉のほうが説得力があるだろう。
司馬は巧緻なレトリックや美文を多用するタイプの物書きではない。
この文章が美しいのは魂から出た、彼の本音の言葉だからこそ美しいのだろう。
だから司馬は「近江のクニが故郷であったら、どんなに懐かしいだろうか」と思い続けたのではないか。
司馬は街道をゆくシリーズで近江・滋賀を6回も訪れている。
県別でカウントした場合は突出した数だという。
やはり司馬は近江及び近江人を深く愛したのだ。
神社内には紫式部はじめ、いくつかの歌碑がある。
司馬の一文もこれらに加えてほしいものである。