消費鎖国の鎖を断ち切った「黒船」
2000年にJR名古屋駅再開発に伴い新しい駅ビルに開業。
駅ビル再開発の計画当初は地元の松坂屋が出店意欲を表明していた。
タカシマヤがテナントとして入り、名古屋タカシマヤが開店した。
パイの取り分もだいたい決まっていた。
一般の名古屋の人々からすれば「岐阜の柳瀬にもある百貨店か」程度の認識。
名古屋地区において高島屋のイメージは芳しいものではなかった。
老舗百貨店、皇室御用達として高いブランド力を持つ高島屋も中京地区進出が成功するものか、という懸念があった。
高島屋自身は「東京や大阪でやっていることを普通にやれば勝てる」と思っていたらしい。
具体的にはヒールの女性が歩きやすいように絨毯のような素材で床を覆う、店舗面積を削っても通路を広めにとり、休憩できるスペースを設置する、女性用のトイレを「パウダールーム」のようなラグジュアリーな仕様にする等など。
名古屋、特に名駅地区でこのような百貨店はなかった。
名古屋の人々は高島屋百「華」店をすっかり気に入ってしまった。
5万㎡以上の売り場面積を誇る旗艦店名古屋タカシマヤは、さっそく名古屋地区の人々に受け入れられた。
タカシマヤの進出に伴い名駅地区の街としての格も上がった。
当然、名古屋タカシマヤが松坂屋本店を抜いて地域一番店として君臨。
高島屋が名古屋の大手門ともいうべき名駅に進出して以降、サークルKが強かった東海地区にセブンイレブンが進出、名駅西側へのビックカメラ進出(当時名古屋で家電といえばエイデンだった)と、消費鎖国の名古屋商圏の雰囲気が変質したように思える。
高島屋名古屋進出により本店の黒字が圧縮、会社全体として経営が苦しくなる。
それほど松坂屋は名古屋商圏において巨大な存在だった。
預金残高ベースで三和は東海の三倍の規模だったが、名古屋地域においては東海銀行は圧倒的だった。
かつて名古屋財界は五摂家とよばれる地元企業が牛耳ってた。
もう消費鎖国は終わっているといってよい。