〜さざなみのおおやしま〜

何でも「少なく、小さく、軽く」が身上のミニマリスト。GAFAMの犬。楽天経済圏の住人。<サラリーマンのテーゼ>について考える。

滋賀鉱産株式会社@米原市春照


「母なる琵琶湖」と並び称せられる「父なる伊吹山」。
標高1337mであるが、山容がどっしりして威厳があり、「父なる」と賞するのがふさわしい。
司馬遼太郎の言葉を借りれば「雄牛の背を盛り上げたような」形をしている。
伊吹山は昭和26年以来の石灰石(セメントの原料)の採掘事業により、山容が変わってしまった。
北西側が水平に削られているのが目立つ。
再び司馬の言葉を借りれば「饅頭でもかぶりとったように欠けています」ということになる。
 
万葉集の古歌に詠われたに名山を削りセメントを作り続けるとは!
その世代の日本人のエネルギー及び野蛮さには驚かされるばかりだ。
最初聞いたときには正直、鼻白んだ。
免罪符になるとは思っていないが、地元の信仰の対象となっていた秀峰から石灰を採掘して結果として、標高まで低くしてしまった事例が、埼玉県秩父市にあるらしい。
高度経済成長期とはそういった時代だったのだ。
 
伊吹山を「かぶりとった」のは大阪のセメント会社だったが、地元への経済的利益も大きかった。
伊吹町は1年で数年分(記憶が確かなら8年分)の行政経費を賄うだけの税収があったと聞いたことがある。
現在は伊吹山系でのセメント採掘事業はほぼ終了している。
削りとられた石灰を素に、高架道路、橋梁、ビルディングを作り、巨大なストックを形成し、我々は現在の生活を享受している。
 
巨大なゲンコツの半分を土中に埋めたような姿をして、伊吹山は今日も聳えている。
その姿を何度も拝んでいるうちに「人間(=子供)がオヤジ(父なる伊吹山)の脛をカジッたようなものか」と思えてきた。
偉大なオヤジである。
 
伊吹山の山容が不自然であることを、ヨソさんに指摘されると、地元の人間は親不幸を恥じるように「あれは地滑りでくずれたんや」と曖昧な笑顔あるいは真顔で応える。
 
新幹線に乗って東から帰ってくると、琵琶湖は見えないが、伊吹山はしっかり見ることができる。
その姿を見ると、ああ滋賀に着いたなと安心する。家の門の前で父親が待っていてくれたような感じがする。
琵琶湖と並び、欠かすことのできない滋賀の風景である。
 
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