〜さざなみのおおやしま〜

何でも「少なく、小さく、軽く」が身上のミニマリスト。GAFAMの犬。楽天経済圏の住人。<サラリーマンのテーゼ>について考える。

五木寛之の大阪論〜石山本願寺と門前町が大阪の都市の祖型である〜


 

小説家・随筆家の五木寛之は、福岡県出身で早稲田大を中退している。

彼の学生時代、新幹線などは当然なく、大阪に立ち寄ることが多かったらしい。

彼は大阪という街が気に入ったらしく、好意的に大阪を評している。

後に『親鸞』などの浄土真宗に関する著作もあり、石山本願寺のあった大坂・大阪にも好意的というところだろうか。

五木さんは大阪の祖型を「宗教都市」としているのが面白い。

これに対して京都は「前衛都市」らしい。

「大阪は物語にあふれる街だ」と書いている。

この点は私も同じように思う。

大阪ほど物語にあふれ、また物語の舞台として適当な街は、おそらく日本にはない。

東京よりも都市の持つ光と影の陰影が濃い街のように思える。

以下に五木の大阪論を書き留めておく。

 

大阪は物語にあふれる街だ。

だから私にとって、東京にはない親しみを覚える場所になっている。

 

その大阪に都市が成立するのが15,16世紀。浄土真宗の僧運如が、上町台地にささやかな寺・石山御坊を建てたのがきっかけだった。山科本願寺が焼けたあと、石山に本山が移り、ここに石山本願寺がやがて誕生する。その周囲に、寺で働く人たちの住まいが出来る。大工や仏具師も集まって、寺内町が成立する。多いときには8千もの人が暮らしたという。

 

各地から集まった海産物や織物を売る市もにぎわった。そこは大名の力も及ばず、武土も町民にも平等の精神が行き渡る自由の地だった。堀や土塁で守りを固めた寺と町は運命共同体として、織田信長の10年にわたる攻めにも耐えた。

 

船場の繊維、道修町の薬品なども、その寺内町のころから発展した産業のようだ。石山本願寺が焼けて、大阪城ができたあと、北御堂と南御堂ができる。その二つの寺を結ぶ道筋が御堂筋と呼ばれ、近江からもたくさん商人がやってきた。

 

そんな身近な地名にも、宗教との密接なつながりを示す物語が残る。しかし今の日本には、現実的な商売人の住む街として、大阪を軽く見る風潮があるような気がする。いまだに「大阪では挨拶にもらかりまっか、ぼちぼちでんなあ、と言うそうですね」と半ばからかうように言う人もいる。大阪の豊かな歴史や物語が広く知れわたっていないのだと思う。

 

先年、ある大学の先生が「建築は乾く」という文章を書いていた。昔はコンクリートを練ったり壁を塗ったりして、建築には大量の水を使った。それが技術の進歩で、だんだん水を必要としなくなったのだという。これを湿式工法から乾式工法への大転換というらしい。

 

しかし、乾いてしまったのは建築だけなのだろうか。いまは涙を流して子どもを叱るような熱い先生は少なくなった。医は仁術と言われたのも昔の話だ。終身雇用が崩れ、毎年3万もの人が自ら命を絶つ。日本の社会全体が潤いを失って、乾き続けているように思えてならない。都市もその例外ではない。

 

効率優先で建てられた高属ビルで埋まって、乾ききってしまっている。私は歴史や情感あふれる物語を感じさせる要素を残すことこそ、都市に潤いを与えると思う。大阪も、もっと自分のもっている物語を大切にした方がいいのではないか。

 

奈良の明日香は小さな村なのに、たくさんの人が万葉集片手にハイキングに押し掛ける。そこには、一木一草に物語が宿っているからだ。「ああ、ここを古代の人たちが走ったのか」。そう思いをはせることができることが、人を集める魅力につながる。物語があれば、歴史の流れに想像を広げることができる。そんな街なら、住んでいる人にも自信がみなぎる。

 

物語と人間の情感があふれる街。大阪には、荒野のような現代人の心のオアシスになるような、そんな街づくりをして欲しいと願わずにはいられない。

 

以上。