★さざなみの大八洲★〜さざなみのおおやしま〜

滋賀県、関西を中心に書きます

とざわモモカミの里@最上郡戸沢村蔵岡

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ずんずんと夏を流すや最上川
 
コリアンな雰囲気の道の駅。
ある時期に韓国籍の方が周辺に嫁入りされたことに由来するらしい。
成功しているかは微妙である。
最上川の峡谷部にコリアンな建物があることは、一見不可解である。
韓風の景色というには周辺の緑が強すぎるように思える。
轟々とした流れる最上川を眺める設えのほうがよいのではないか、と思える。
従来からあるもので十分に素晴らしい。
その見せ方を工夫するだけでよく、新奇なことで耳目を引く必要はない。
 
狭い峡谷部を流速の速い大河が流れるさまは、俳人たちの詩想を刺激するらしい。
附近の本合海という箇所で、多くの俳人が歌をつくっている。
圧倒的に有名なのは芭蕉の句だろう。
五月雨を 集めてはやし 最上川
芭蕉らしく大変キレイな句だが、これでは最上川の雰囲気は伝わらない。
急流最上川をよくあわらした子規と蕪村の句がある。
ずんずんと 夏を流すや 最上川(子規)
五月雨や 大河を前に 家二軒(蕪村)
黒々とした大きな蛇あるは竜が峡谷を這うような河の流れは素晴らしい。
谷間に見える夏の青空と「夏を流す」かのように流れる最上川
雨の日は河の轟音が自然の力の凄まじさと人間の無力さ、つまり「大河を前に家二軒を」を感じさせる。
ことほど左様に近辺の風景は素晴らしいのだ。
山形の人たちは、自分たちが持っているものの素晴らしさを過小に評価するか、第三者に説明することを諦めていることが多いように思える。
「山形にいいものはあるが、宣伝が下手で」と自嘲気味あるいは諦め気味におっしゃる方が多い。
三者に喧伝するためには、自らがその対象の価値を信じきらなくてはならない。
おそらく山形の人達はこういったある種の「傲慢さ」からは程遠い方が多いように思える。
自分のところにいいものがあるなら、よそにもそれはあるだろう、あるいはそれ以上のものがあるだろう、と考えてしまうのが山形の人たちの意識の底にあるように思える。
「野暮で誠実」な県民性ゆえに仕方がないことかもしれない。
謙虚で控えめ、自らの考えや行動に懐疑的、他人をよく気遣い、いい意味で正直即ち誠実、悪い意味でも正直即ち野暮という、彼らの美徳と分かちがたく結びついている欠点であり、致し方ないのかもしれない。
軽快で洒脱で万事にソツがなく弁舌爽やか、などという山形の人を見たことがないないし、実際そういう方がいたら気味悪く感じるか、山形の人というのがウソではないか、と思ってしまうだろう。
「失礼ですが生まれは何処ですか?山形ですか、、、。では失礼ですがご両親はどちらの出で。」
なんて尋いてしまいそうである。
そんなことを思って少し可笑しかった。
 
余計なことかもしれないが、関東では山形といえば「田舎」の代名詞のように思われるむきがあるように思える。
しかし関西では驚くほどイメージがいいということをお伝えしたい。
関西人の大好物の牛肉を含めて食べ物がおいしい。
関西の高級スーパーイカリスーパーには普通に庄内米が置いている。
その他山形牛、山形の果物およびこれをつかったスィーツ。
関西にあまりない良質の温泉が至る所に湧き出している。
風景を構成するひとつひとつのものが雄大
人は素朴で親切で誠実。
まさにアルカディアに思えるのである。
山形から大阪に出てきた知人は、当初、訛りを直そうとがんばっていたが、十年を経ていまは山形のアクセントに戻ってしまった。
自営業の彼にすれば山形のアクセントと言葉で話していたほうが、周りがよく覚えてくれて親しみをもってくれるらしい。
学生時代を含めて訛っていることで嫌な思いをしたことは一切なかった、むしろ周りの関西人たちは「それ、ええなぁー。」と面白がってくれたらしい。
今では「おお、あの山形の人か。素朴で正直そうなひとやな」と思ってもらえるらしい。
ビジネス山形弁か!
本来の名前とまったく関係なく「ヤマちゃん、ヤマちゃん」とみんなに可愛がられている。
山を背にして水を前面に置くように建てるという韓屋風の建物と、最上川の間で考えたことである。