〜さざなみのおおやしま〜

何でも「少なく、小さく、軽く」が身上のミニマリスト。GAFAMの犬。楽天経済圏の住人。<サラリーマンのテーゼ>について考える。

『日本史の謎は「地形」で解ける』竹村公太郎


近江・滋賀について

交流軸の都市は栄えるという言葉がある。あの近江名所図屏風に描かれた琵琶湖周辺の賑わいは、まさに交流軸の繁栄を示していた。
しかも、21世紀の今でもその躍動は続いている。現在、全国の地方都市の人口は低迷している。この傾向の中で滋賀県は常にトップクラスの高い人口の増加を示している。また県民一人当たりの製造業粗付加価値額が高いのも滋賀県である。製造業粗付加価値額とは、その県に入ってきた原素材をいかに価値あるものに仕上げて、県外に売り出していくかという指標である。そこの県民の英知と文化度の高さを表わしている。
滋賀県の躍動の源は、鉄道と道路にあった。交流軸の上の都市は栄えるという原則を近代の滋賀県が証明していた。1963年、我が国最初の高速道路の名神高速道路が開通した。その名神高速道路は滋賀県内を通過した。さらに1972年、日本で4番目の高速道路・北陸自動車道が開通した。この北陸自動車道は、東名・名神高速道路と比べると一見して地味に見える。しかし日本の国土への影響に関しては、東名・名神高速道路と同様にその持つ意義は大きい。この北陸自動車道によって、太平洋側の圏域と日本海側の圏域が直接結びついた。雪深い北国と暖かい関西・中部が、あっという間に行き来できるようになった。そして、この北陸自動車道が東名・名神高速道路に合流した場所が、滋賀県米原インターであった。20世紀になっても琵琶湖周辺が、東西日本と南北日本のネットワークの結節点となった。
高速道路が開通する以前、滋賀県の県民一人当たり製造業粗付加価値額は、全国の中間あたりで低迷していた。その滋賀県が、高速道路の開通と同時に目覚めた。東名・名神高速道路が開通して15年経った1980年(昭和55年)には、他の20県近くをゴボウ抜きして全国第5位となっていた。その後の数年間は第5位あたりで頭打ちを示したが、北陸自動車道が開通するとまた躍進が始まった。北陸自動車道が開通した後の1987年(昭和62年)、遂に一人当たり製造業粗付加価値額で全国第1位となった。
滋賀県の歴史は「交流軸は栄える」ことを鮮やかに教えてくれる。
 
大阪について 
この大阪に住むと、大阪の心地良さがいつの間にか身体に浸み込んでいく。大阪人の人懐こさとこだわりのない暖かい会話は東京にはない。市内のどの街にも細長い商店街があり、そこの食堂、銭湯で生活していれば単身赴任でもなんら不自由を感じない。

都民の憩いの場のすべての緑地は、かつての権力者たちがつくったものばかりであった。パーレビ王朝がつくったテヘランのバリアスル並木道や中国王朝がつくった北京の景山公園と同じように。

 大阪の人たちが緑を愛していないかというと、決してそうではない。大阪の人たちは草木や花をこよなく愛している。どこの路地に入りこんでも、狭い軒先に小さな鉢植えがところ狭しと置かれ、季節の花があふれんばかりに咲き誇っている。大阪の人々が草木や花を愛していることは間違いない。しかし、大きな緑の空間に出会うことはめったにない。

それは大阪は庶民の町であり、権力者の町ではなかったからだ。江戸時代、天下の台所の大坂の主役は、近松門左衛門井原西鶴が描いたように庶民であった。大都会に吸い寄せられた庶民の住む空間は狭い。それまでの大きな区画の土地は細かく分割され、人々はその狭い空間に肩を寄せ合い生きていく。

注記

大阪には巨大な権力者がおらず権力者がつくった巨大な公園がない。

”豊臣幕府”の政庁は伏見城であり、大阪は城は豊臣家の私邸の位置づけである。