関西に住む以前は、大阪駅周辺と梅田地区はあるていど地理的に離れているものだと思っていた。
大阪駅付近と梅田駅付近がほぼ同じ場所なのだ。
東京や名古屋では、ほぼ同じ場所にあるならば、私鉄や地下鉄の駅名は旧国鉄のJRの駅名と同じである。
調べてみると関西では付近に国鉄駅が近くにあっても、私鉄駅は別の名前がついていること多いことがわかった。
国鉄の駅名を私鉄の駅名に合わせた希少な事例である。
平成三年、初めて梅田に行ったとき、この街の主人は阪急だと直感的に理解した。
対するJR大阪駅は当時は低層のくすんだ建物だった。
阪急梅田駅と一体を成していた阪急百貨店は前代の建物だったが、豪奢で洒脱な作りは、田舎の高校生だった僕には衝撃的だった。
旧コンコースは天井が高くステンドグラスが入っており、大きな教会か宮殿のように思えた。
戦前からあったと聞いて、素直に頭に浮かんだ言葉は「大大阪」だった。
夏休みの貧乏旅行で訪れた高校生の僕はこう思った。
「東京のほかに、日本にこういった大きな街が、もうひとつあったのか」と。
当初、阪急梅田駅は大阪駅より南側にあった。
もくもくと煙を上げ、ぼてぼてと地べたを走る官鉄の上を、高架線の阪急電車がすーっと走る。
電気が動力だから加速も早くスムーズ、煤煙も出ない。
その姿を見ればおのずと阪急>>官鉄の構造が理解できただろう。
さすがは民衆の大都会である。
やがて梅田駅はセットバック、官鉄線の北側に移動する。
いわゆる「阪急クロス問題」である。
ムーヴィングウォークは、かつて阪急梅田駅が国鉄の線路より南にあったことの名残かと思われる。
当初の梅田駅の跡には、世界初のターミナルデパート阪急百貨店が威容を誇った。阪急はJRへの乗換を案内しない。
否、乗換駅が存在しないのだ。
宝塚駅など道を挟んで向こう側という場所はあるが、特に案内はしない。
逆にJRは阪急への乗換を案内している。
まるでJRが存在しない阪急王国という国があるかのようだ。
阪急梅田駅と大阪駅もうまく連絡する方法がいまだにない。
通常の私鉄ならJRとの通路を設け、乗換客を誘引するはずだが、阪急はそういったことをしない。
唯一の通路は梅田歩道橋。
雨に濡れるじゃないか。
しかも歩道橋は京阪電鉄沿線の門真の会社社長が寄付した。
松下幸之助である。
駅のホームは通常、1番線、2番線と番号が振られているが、阪急の場合は1号線、2号線である。
国鉄のやり方には習う必要はないらしい。
問題の底には関西に住んでいるものにしか見えない原因があった。
関西、特に京阪神地区においてJRは「おいつめられた挑戦者」として焦っていた、ということだ。
上品でかつ親しみやすいという企業イメージ、積極的な沿線開発、緻密なダイヤ編成、国際標準軌対応の上質な車輌の乗り心地を持つ阪急に、JRが対抗しようと思えば長大な路線延長を素早く結ぶしかない。
「普段の移動は私鉄、JRは遠くへ行くときに乗るもの」というのが京阪神の伝統的な位置付けだ。
事故を起こしたJR福知山線は宝塚~大阪間で阪急と競合する。
そして劣勢だった。
この沿線における力関係がよくわかる。
JRとしては、阪急のない三田方面から素早く大阪まで運行し、阪急のない京田辺方面に素早く抜けることが比較優位となる方法だ。
JR福知山線は「電」化され間もない路線だった。
やっと速達性において阪急「電」鉄と勝負できるようになった。
速達性を重視したダイヤ編成こそが阪急に勝てる唯一の方法だったのだ。
この状況ではとても勝てない。
「阪急では入社時から『安全運行は輸送の生命線である』と叩き込まれる。JRさんはそれを忘れてはったんですかね」
と言っていた。
輸送の生命線を脇に置いてしまうほど、JRは焦っていた。
世界有数の旅客会社JR西が焦らざるを得ないほど、阪急のブランド力は傑出していたのだ。
私鉄王国京阪神において、JRは常に2番手以下の地位だった。
JR沿線より私鉄沿線、特に阪急沿線に住みたいと思うのだ。
普通は「JRが私鉄に対して完全に劣勢で挑戦者。」という状況が感覚的に理解できない。
関西の私鉄は積極的な沿線開発を、半世紀以上も行ってきた。
ターミナルデパートを開業し、付近にレジャー施設を誘致あるいは開発、私立校を誘致した。
遠くへいくための国鉄・JRはどこか高慢で、どこか無粋で沿線は退屈だった。
我が国において都市間競争は起こりにくかったが、私鉄の沿線開発が擬似的都市間競争を惹起したといえる。
阪急沿線で育った人々は、例えば同じ宝塚から西宮に転居することに抵抗はなくても、阪神沿線の尼崎に転居することには大きな抵抗があると思われる。
ことほど左様に関西の人々にとって私鉄というのは大きな存在なのだ。
そして関西五大私鉄の王様が阪急電鉄なのだ。