大きな街には大きな駅がある。
鄙びた町の駅は鄙びている。
京都駅は優れて京都的だ。
どちらも攻撃的なまでに前衛的だからだ。
現在の京都駅駅舎は4代目。1997年(平成9年)竣工。
設計者は国際指名競争方式で決定された。
構築費800億円の巨大プロジェクト。
駅舎空間を「滞留する空間」として再定義した原広司案が採用された。駅舎内は「無駄な空間」が多い。
構内天井までの支柱無し、鉄骨とガラスで構成された天井。
巨大な吹き抜け。座って語らう場所や休憩場所として使われている巨大階段を上れば屋上庭園がある。
駅の中に庭園!
夜になると薄暗く、駅の構造物の陰となるスペースがたくさんできる。
おまけに薄暗い照明設定だ。
公共の場としてはふさわしくない。
だが、そのような場所にこそ人は「滞留」する。
JR各社は、駅舎の一部を商業施設として賃貸し、収益を上げている。
「駅前一等地」ならば「駅ナカ超一等地」である。
駅ナカの賃借事業を核とした不動産事業は、旅客事業と並ぶ収益の柱になっている。
旅客事業が需給の浮き沈みや景気に敏感に影響されるのに対し、不動産賃料は安定的な固定収入である。
東京駅の大丸は増床。
面白いことにに、どの駅ビルにも地生えの百貨店が入っていない。
京都駅と同時期にできた名古屋駅は200メートルを超える超高層のツインタワーであり、最大床面積の駅舎としてギネスに登録されていた。(現在は大阪駅に抜かれている)「空間の大量供給」を目指した建築物である。
テナントとして入っているJR名古屋高島屋は絶好調。
まさに商業効率優先の建築物であり、JRの駅ナカ戦略の成功事例となっている。
一方の京都駅。
商業効率が最優先なら、滞留するスペースは無駄だ。
滞留する空間は、直接的には商業施設への賃借には利用できない。
単位面積あたりの収益率は下がることになる。
しかし京都駅においては、デザインが商業効率を超える論理だ。
いままでの人々の「駅」という概念を完全に覆す巨大な構造物。
そのデザインは攻撃的で前衛的だ。
完成から20年を経た現在、京都駅のデザインへの評価は高い。
建設当時は「京都にふさわしくない」というお決まりの批判が噴出した。
ではいかなるものが「京都にふさわしい」のかとい言えば、誰も答えられない。
大仏殿のような駅舎やJR奈良駅旧駅舎のようなデザインが、相応しいとでも言うのだろうか。
JR奈良駅旧駅舎は和洋衷様式であり、古都奈良を象徴する意味において、それなりの存在感があった。
しかし和風の巨大な建築物はよほど慎重にやらないと、田舎のテーマパークかロードサイドの和食ファミレスのようなデザインになってしまう。
和風の巨大な駅舎、真宗の大伽藍なような建物を作ったところで誰からも「京都らしい」と称賛されることはなかっただろう。
京都は美しいことばかりではないが、攻撃的なまでに前衛的で街あることは間違いない。
攻撃的なまでに前衛的であることが京都の街のアイデンティティーの一部ではないかと思える。
「我、魁とならん」の気風が多いにある。
否、彼らは気負うこともなく、ごく自然体で「攻撃的ほどに前衛的」なのだ。
京都ほど若さにあふれ、進取の気質の富んだ街ない。
百数十年前に首都を東京に奪われ、大阪と指呼の距離にありながら、それでも独自の力と魅力を持つ大都市であり続けている。
「歴史と伝統」に埋もれたカビ臭い街ではなく「創造と革新」おこなう都市である。
四半世紀以上前、大学進学のため先代の京都駅舎に降りときから、今でも僕はこの街にくるたびにドキドキする。
新しい発見があるからだ。
この街が「古都にして現代の大都市、多様な価値観と人材を包摂し新たな価値を生み出す攻撃的で前衛的な都会」という稀有な存在だからだ。
京都駅はこの街の「攻撃的で前衛的」な面を、巨大な質量を持って象徴している。