〜さざなみのおおやしま〜

何でも「少なく、小さく、軽く」が身上のミニマリスト。GAFAMの犬。楽天経済圏の住人。<サラリーマンのテーゼ>について考える。

大丸百貨店心斎橋店〜大丸は義商なり。犯す勿れ。〜


大丸は義商なり。犯す勿れ。
 
都市の精華「百貨店」を体現している。
門井慶喜の小説「屋根をかける人」の主人公ヴォーリスが設計した日本百貨店建築の最高峰。
この百貨店が戦前からあるというだけで「大大阪」がいかに偉大かがわかるというもの。
二十代の頃、東京で「大丸百貨店」と言ったところ、笑われた経験がある。
ご老人が使う言葉を二十代の若者が使っているのが可笑しかったらしい。
普通は「デパート」というべきらしい。
 
当時も今も、関西では百貨店というのが普通で、デパートとはあまり言わない。
「阪急デパート」「大丸デパート」「高島屋デパート」どうもしっくりこない。
新宿の小田急や京王、大きな衛星都市の駅前にあるものならば、「デパート」だが、心斎橋大丸はそういうわけにはいかない。
あまりにも重厚なのだ。心斎橋大丸デパートに非ず、心斎橋大丸百貨店なり。
だいまるしんさいばしてん、にあらず。だいまるしんさいばしみせ、なのだ。
 
大丸は呉服店として伏見京町で創業し「先義後利」(まずは義を為すべし。利はその後についてくる)をモットーとした。
やがて大坂にも進出、大棚となったが徒らに利を貪らないことが評判だった。
施餓鬼(せがき)として毎年貧しい人に食料や衣服等を、利益の再分配をしていたのだ。
他の豪商も施餓鬼を行っていたが、大丸・下村家は特に熱心だった。
大塩平八郎の乱において特に
 
「大丸は義商なり。犯すなかれ」
 
とされた。このような事実を鑑みるに、江戸時代には商人道ともいうべき倫理が確立していたのではないかと思う。
武士道における「葉隠」的に有名なのは石門心学だが、近江商人家訓のエトス三方よしの精神「売り手より、買い手よし、世間よし」を見るに江戸時代には「乞食商売、泥棒商売」は忌避され商人道が完成されたのではないかと思える。
世間よし、の部分が大丸では「義」として表されたのではないか。
 
バブル崩壊後、心斎橋地域にも空きテナントが出始め、風俗店や飲み屋の進出が懸念された。
オオバコの風俗店の出店!
かつて「銀ブラ」「心ブラ」と称された心斎橋の街の格が下がってしまう。
だが厳しい出店規制をすれば、空きテナントが増えてしまう。
この状況で義商・大丸が決然と立ち上がる。
周辺の空きテナントを賃借して、自ら出店業者を募集したのだ。
「本館でなくても大丸さんのテナントに入れればウチの格はあがる」と判断した多くのテナントが入り、心斎橋は衰退から救われた。
いわゆる「神戸方式」を心斎橋でも展開したのだ。
心斎橋は魅力あるエリアとしての命脈を保った。心斎橋に出てくれば、その顔ともいえる大丸にはかなりの確率で寄ることになる。
 
その街と百貨店は共存関係なのだ。
戦前から心斎橋筋の繁栄を共に支えてきた「そごう」が心斎橋から撤退した時さえ、そごう心斎橋本店ビル一棟を買い受けた。
心斎橋は巨大な空きテナントビルの出現から救われ、5万m2超の旗艦百貨店が登場、かえって魅力を増したのだ。
現在、心斎橋は「ドラッグストアからハイブランドまで」といわれる商業集積地として、アジアの観光客に大人気だ。
徒歩圏内にドラッグストア、家電量販店、ハイブランドストア等が揃っている。
20年ほど前から心斎橋に通っているが、ここ数年が最も人が多いのではないかと思える。
 
どん底の時期に心斎橋を支えたのは義商・大丸なのだ。