抱擁する街の素
1594年、秀吉は首府伏見城と大坂城とを淀川で結ぶことを目的として、伏見港を築港した。
その後、伏見は港町として再生する。
江戸時代を通じて、京坂間の物流及び往来の結節点として機能し、国内最大の内陸河川港となる。
幕末には坂本竜馬を含めて維新志士の多くが伏見に潜伏した。
上方以外の人々も多く往来し都に近い港町は、潜伏の場所としては最適地だった。
太閤秀吉の城下町の伏見町衆は、徳川政権打倒を目指す志士たちを良く庇った。
明治期に入り、我が国初の電車の営業運転が、官鉄京都ステーションと伏見港を結んだ。
しかし戦前までは港は僅かながら機能していた。
1960年代になると港を埋め立て市営駐車場とする都市計画が策定された。
死に体の港を完全に抹殺して、陸上交通に奉仕させようというのだ。
交通の結節点であることに変わりなかった。
曰く「上に蓋をしてしまうということは、下は臭いものだということになる。開府以来、伏見港は繁栄を支えてくれた恩人であり、臭いものではない」と。
京都人が思うよりも伏見という町は、伏見の町衆はしぶとかった。
伏見港跡埋立は規模を縮小、歴史的景観を復元した公園整備が計画・施工された。
伏見港は現在でも法律上は「港湾」であり国交省舞鶴港湾事務所の管轄である。
港の本来の機能がフルストップしてから、半世紀以上が経過した。
しかし港町時代につくられた開放的で多様なものを受け入れ抱擁するこの町の性格は、現在も生きている。
枕言葉のように「閉鎖的」と言われる京都とは、際立って異なる伏見の特徴だ。私は住民票上の住所が10回以上も変わったが、伏見よりも開放的で包容力に富んだ町に住んだ経験はない。
「(御香宮祭は)歴史ある町の歴史ある祭だが、移り住んだ伏見一代目の新住人達が是非御輿を担ぎたいと申し出てくれる。旧い住人達もこれを歓迎している。これこそが誇りだ。祭りを通じて新住人と旧住人が一体となる。集団を一体化させる、同化させることこそ祭り本来の機能である。だから日本一のお祭りだ」
といった旨のことをおっしゃっていた。
こんな街が他にあるだろうか。
1994年、京都は街をあげて平安建都千三百年年を祝った。
しかし大手筋周辺のみは「伏見港開港四百年」の幟が翻った。
京伏合同から80年経っても、伏見は吸収されたわけでも同化されたわけでもない。
伏見では伏見市と京都市の合併を「合併」とは言わず「合同」という。
あくまでも対等であり、京都が一緒になってくれと頼んできたから「合同」したということらしい。
自称伏見人の僕にもこれはよくわかる。
伏見は京都とは別建ての街なのだ。
京都という街を目の前にして気分的に別建てでいれるというのはすごいことだ。
バブルの頃、伏見に住んでいると言うと「伏見は京都ちゃうやん」などと揶揄われたことがある。
ふん、京都に住んでいるなんて思われたくないわい、こっちは伏見に住んでいるんだ。
伏見は伏見なのだ。